主題 <主の介入>
聖書箇所 士師記 20章 (2012年10月10日)
今日のみことば「こうして、主がイスラエルによってベニヤミンを打ったので、イスラエル人は、その日、ベニヤミンのうち二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」(35)
19章に続き20章では、レビ人が、そばめの死に至る事件を報告した(4-7)。しかし、実際に起こったことと、その報告とは異なっていた。実際に暴行したのは「よこしまな者たち」であったが、報告では「ギブアの者たち」という表現で、指導者たちがそれに加わったかのように言い、自分を殺そうとしたと言う(5)。また、自分がそばめを外に出したことは報告せず、そばめがその場で死んだのか、充分な介抱をしなかったので死んだのかも、明らかにしていない。自分の責任が一切問われない報告となっている。
他人事のようなレビ人の報告とは対照的に、イスラエルの民は、ベニヤミン族の恥ずべき行動に怒りと報復を宣言する(10)。彼らはこれは主の戦いであるという熱情に駆られてしまう。疑わしいことばによって神の民全体が動かされ、利用されていく姿にも、私たちは自戒しなければならない。
イスラエルの民によって、自らの姿が指摘されたベニヤミン族ではあったが、彼らは聞く耳を持っていなかった。それどころか彼らは、部族全体でギブアに結集し、戦いの準備をした(13-16)。ベニヤミン族は最初、勝利していくが、結果的には徹底的に敗北する(42~48)。この戦いはイスラエル全部族にとって悲しみと傷となるが、最後に明らかにされていることは、主がこの戦いに終わりをもたらしたことにあることを忘れてはならない(34~35)。ベニヤミン族に見る高慢さ、それをそのままにされなかった主のさばきを見させられる。私たちは一つの偽証に始まった事件に、神は最善のさばき、解決を示されるお方であることを忘れてはならない。