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2012年4月

2012年4月 2日 (月)

主題 <十二人の子らの祝福>

聖書箇所 創世記 49章    (2012年 4月 8日)

今日のみことば「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」 (10)

 ヤコブはいよいよ最後の時を迎えようとしている中で、十二人の子どもたちを祝福し、預言を与えられる。この祝福と預言のことばが与えられる中で、注目されるのは、ユダとヨセフについてである。
 ルベン、シメオン、レビ、イッサカルたちには、いくらかの叱責のことば、罪が明らかにされている。しかし、ユダに関しては、叱責のことばや罪が指摘されていないという点である。むしろユダの方が、さばかれて当然の罪を犯していた(38章)。それはなぜか?それはユダの家系から出るキリストによる、罪の赦し、神にある真の平和がもたらされることのためであった。10節の「シロ」とは「平和」の意味で、ユダの家系から真の平和の王なる方が来られ、この方の前にすべての者が仕えるようにことが預言され、まさに、これはイエス・キリストによって成就した。罪の完全なきよめを象徴している。
 もう一つ注目したいのは、ヨセフで最も多くの祝福のことばが用いられている。ヨセフに対する祝福のことばは、ヨセフ自身のみならず、ヨセフを越えて、さらに多くの人々に及ぶことが言われている(22)。そして、「永遠の丘のきわみにまで及ぶ」(26)と言われており、永遠に祝福は受け継がれていく、それは山に達するように誰の目にも明らかな者となることが言われていた。主の祝福は尽きないことを物語っている。
 今日、私たちは主が祝福されたように、今も、これからも祝福の御手を伸ばしてくださるお方がおられることに感謝したいと思います。そして、何よりも主の祝福の恵みを受け継ぎ続けていく者とならせて頂けるように祈ろう。

主題<羊飼いであられた神>

聖書箇所 創世記 48章    (2012年 4月 7日)

今日のみことば「それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(15)
 ヤコブは自分の寿命を悟り、最後にヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを祝福する。マナセとエフライムをヤコブの子として、祝福を受け継ぐ者たちに加えられていく。
 ヤコブは彼らを祝福される時に、「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(15)と告白している。ヤコブにとって、全能の神は、同時に共におられ導かれる神であったことを告白したことばであったことが分かる。ヨセフの子どもたちを祝福するにあたり、かつて自分は兄エサウと偽って祝福を奪うようなことまでした利己的」で、貪欲な者であったが、神のあわれみは尽きず、見捨てることなく導き続けてくださったことを思い起こすように、主の導きの確かさに感謝しつつ、ヨセフの子どもたちの今後の歩みを導いて頂けるように願った、真実な祝福の祈りのように響いてくるものがある。
 この祝福の祈りの場面で、父ヤコブの右の手が弟のエフライムにのせられ、左手は長子のマナセの上に交差してのせられているのをヨセフは間違いと思い、手をのせかえようとする。しかし、ヤコブは「わかっている。」(19)と言って、エフライムの方がより多くの民となることを暗示し、祝福された。ヤコブ自身もそうであったが、人間的な手段で弟が祝福を継承していったが、それはすでに神のご計画であった。それは神ご自身が定められたということでもあり、エフライムもすでに神の選びの中に、より多くの祝福にあずかるとされていたということで、これは神が定められ、導かれていくことで、人間の入り込む間は与えられていないことであることを示していると言えよう。
 主の導きにゆだね従う者となれるように祈ろう。

主題 <さいわいな生涯>

聖書箇所 創世記 47章    (2012年 4月 6日)

今日のみことば「ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」」(9)  
 エジプトに到着したヤコブたち一族はエジプトの王パロによって最も良い地であるゴシェンの地に住むことが許された。
 ヤコブはパロと会見し、「私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(9)と言っている。確かに、ヤコブの齢は先祖たちにくらべ短く、度重なる苦しみ、試練の連続だったという点でふしあわせであったかもしれない。しかし、ヨセフの導きにより、エジプトにて安住が許され、何よりも家族たちと共に過ごすことができる晩年を送ることができたのはしあわせであったのではないだろうかと思う。おそらく「ふしあわせ」であったという不満を述べたのではなく、この価値観からすれば客観的には「ふしあわせ」と思っても、ヤコブの生涯全体的には神の導きのうちに最善がなされたこと、エジプトの地に来て、ヨセフとの再会と安住が与えられたことの感謝を強調しようとして言ったことばとも取れるのではないだろうか。
 なおもききんが続く中、ヨセフは食料の代わりに、銀、家畜、農地を買い取り、最終的に買い取った農地に種を蒔かせて、その収穫の五分の一をパロに収めさせるように命じられている。ヨセフはあらゆる点で用意周到な統治者としての力を発揮した。そして、いよいよ父ヤコブは寿命が近づきつつあった。
 ヤコブ、ヨセフとそれぞれの生き方、賜物、経験、すべては異なり、何をもってしあわせというのか考えさせられる。ただ一つ言えることは、ヤコブにしても、ヨセフにしても、さまざまな苦労を経て、最後は主の祝福にあずかったということではないだろうか。しあわせな生涯は主に最後まで従う歩みの中にあるのを覚えたい。

主題 <わたし自身があなたといっしょに> 

聖書箇所 創世記 46章    (2012年 4月 5日)

今日のみことば「わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」(4)

 主からの確信を求めて
 ヤコブのもとに兄弟たちが帰ってきて、ヨセフが生きていてエジプト統治者となっており、家族たちをエジプトに迎え入れて下さるとの報告を聞き、ヤコブは信じられなかった(45:26)。
 それでも、ヤコブはヨセフとの再会を願い、一族と共にエジプトへ行く決断をした。しかし、ヤコブの内心はどこかエジプトに下っていくことに不安を感じていた(3)。
 ヤコブの家族がベエルーシェバまで来た。そこで、ヤコブは、神にいけにえをささげた。かつて、ヤコブの父イサクが、エジプト行きを禁じられたのを思い出していたのかもしれないが(26:2)、エジプトに下っていくことについて、主からのさらなる確信を求めていけにえをささげたと思われる。(1)
 その時、神ご自身からの力強い励ましと、約束のメッセージが与えられた(3、4)。 ヤコブにとってするならば、ヨセフのいるエジプトに下っていくことは、最終的にはエジプトの地で、ヨセフの手によって見守られつつ、生涯を閉じていくことになるということも含まれた約束であった。まもなくの生涯の終わりを告げられる内容でもあり、さらなる不安がおそってくるかと思えば、このことを示され語られたヤコブは、むしろ前向きにエジプトへと向かって出発している(5)。それは、どのように生きていくにしても、主が共にいてくださるということに、一切の不安、恐れは消え、主からのさらなる確信と平安をもって進むことこそこれに勝る幸いはないことを示してくれている。
 不安、恐れを一掃して下さる神が共におられることを覚えよう。

主題 <神のご計画と和解の涙>

聖書箇所 創世記 45章    (2012年 4月 4日)

今日のみことば「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」(8)

 ベニヤミンをかばい、必死に訴えるユダ、そして兄弟たちは一致してエジプトに留まろうとしていた姿を見て、とうとうヨセフは自分の正体を兄弟たちに明かした(3)。死んだと思っていたヨセフが生きていて、エジプトの統治者となっていたことに信じられない兄弟たちに、今、生かされて、エジプトにいるのは神のご計画であったとし、兄弟たちを憎むというよりも、兄弟をいつくしみ、神のご計画の御業を賛美し、主に信頼し続ける貫かれた信仰者の姿がそこにあった。
 実際のところ、ヨセフを売った兄弟たちの罪があり、ヨセフは苦しみに強いられたことは事実である。しかし、これらの一連の理不尽と思われるような中にあって、神は黙していたのではなく、すべてのことを神の主権と摂理の中で、すべてが最善となるように導かれていたということをヨセフは告白したのである。兄弟たちは悔い改めに導かれ、ききんによる一族の危機に際し、エジプトへの移住の道が備えられていたということは本当に予想出来ない幸いな結果だった。
 ヨセフと兄弟たちの再会、そして、兄弟の和解は皆が涙を流しながら抱き合っている姿に、これ以上ない和解の素晴らしさを今日の私たちに教えてくれている。
 苦しみの涙が喜びと感謝の涙に変わる。神に導かれた者たちの逆転の人生は実に驚くばかりの恵みに満ちていると言えよう。私たちの人生も神の主権のもとにあり、すべてを最善に導いてくださるお方がいることを覚え、今日も歩ませて頂きたい。

主題 <ユダのとりなし> 

聖書箇所 創世記 44章    (2012年 4月 3日)

今日のみことば「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(33)

 ヨセフから歓待された兄弟たちであったが、再び、事件が起こる。ヨセフの銀の杯が無くなったというのである。身に覚えのないことであることを兄弟たちは訴えた。しかし、銀の杯はベニヤミンの袋から見つかった。これらはヨセフが家の管理者に命じておいたことで、兄弟たちを試すために行ったことだった。
 兄弟たちは何ゆえにこのようなことが起こったか分からなかったが、ヨセフの前に何の申し開きもせず、ヨセフの奴隷となると言いました。かつて、ヨセフを夢見る者とあざけり、ヨセフの見た夢は兄弟たちが、両親までもがヨセフに膝をつき仕えるようになると言われていたことは、まさに現実のこととなった瞬間だった。
 ただ、夢の実現ということだけでなく、今日の箇所から確認したいことは、かつて兄弟ヨセフを売り渡した時のようではなく、兄弟たち、特に、ユダは弟ベニヤミンのためにとりなし続け、自分が身代わりになろうと申し出たことである(33)。
 ユダはキリストの型であると言われている。とりなしをし、徹底的にへりくだり、身代りとなられたという姿は、まさに十字架にまで従われ、いのちをもささげてくださったことを改めて覚えたい。
 まもなく、受難週、そしてイースターが近づいている。キリストの十字架によって示された愛を覚え、キリストのなされた御業に感謝をささげよう。そして、ユダやイエスの歩まれた姿から、今日、あなたの隣人のために愛し、仕える者とならせて頂きたい。

主題 <全能の神への信頼> 

聖書箇所 創世記 43章     (2012年 4月 2日)

今日のみことば「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」(14)

 エジプトから持ってきた食料も食べ尽くしてしまった父ヤコブは、再び、エジプトに食糧を買いに行ってくれるよう子どもたちに頼んだ。しかし、ユダはエジプトへ再び食料を買いに行くときには、末の弟ベニヤミンを連れてくるように言われていたことを告げた。ヤコブはヨセフを失った時のように再び悲しみを経験するのではないか不安となる。そこに、ユダは「私自身が彼の保証人となります。」(9)と言って、ベニヤミンと共に行くことを許して欲しいと願い求めた。かつて、弟ヨセフをエジプトに向かうイシュマエルに売り渡すことを提案したのはユダであった(37:26~27)。そのユダが今度は決して、弟を失うことがないようにと命がけで望む意志を示している。長い時間を経て、家族関係の中に変化が生まれてきていることが伺える。
 ヤコブはユダの訴えを受け入れつつ、最終的には「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。」(14)と言い、すべてのことを神の御前にゆだねていく決心をしました。これまでも、「全能の神」の助けを頂き、導かれてきた生涯を歩んだヤコブであった。大きな不安のよぎる中、これから先のことを全能の神の前にゆだねていくということは、改めて神への信頼を確認する時となった。
 ヤコブの決断のもと、兄弟たちはベニヤミンを連れて、エジプトへ向かいます。そのエジプトの地で、ヨセフから予想もしない歓待を受け、兄弟たちはさらなる不安を覚えていきます。しかし、エジプトへ行った兄弟たちも全能の神の前への信頼が問われていたと言えます。私たちの人生を保証される全能の神に信頼して歩もう。

主題 <兄弟との再会>

聖書箇所 創世記 42章    (2012年 4月 1日)

今日のみことば「ヨセフは彼らから離れて、泣いた。」 (24)

 エジプトにあった飢饉は、全世界にも及ぶ飢饉でもあり、エジプトから遠く離れたヤコブやヨセフの兄弟たちも例外ではなかった。この飢饉が再び離れていた家族を導くことになる。仲たがいし、失われた家族関係と思われたが、神のなさることはまことに時にかなっている。困難の中にも背後に働かれる神の御業とご計画の奥深さを知らされる出来事を聖書は記録されていると言えよう。
 ヤコブはヨセフの兄弟たちをエジプトへ食料の買い付けに行かせる。そこでエジプトの首相となっていたヨセフと再会する。ヨセフは兄弟たちであることが一目で分かった。そこでヨセフは兄弟たちに間者(スパイ)容疑をかけて拘留するが、その監禁所にて、兄弟たちがヨセフにした罪を悔いていることを知る。そもそもヨセフは兄弟たちを恨んで監禁したようにもとれる行動であるが、実は兄弟たちが内心どのように思っているかを知るために、また、末の弟がいることを知って、どのように扱われているかを気にして試したことであった(15)。
 結果的にはヨセフは兄弟たちが悔いていることを知り、さらには自らも兄弟たちへの愛は失われていないことを涙を持って確認させられ、三日間の拘留の後、多くの食料を隠し持たせて帰らせていった。この時、まだ、自らの正体を兄弟たちに明かしていない。真の和解のための時は先に残されていく。いくらかの時間を要して、空けられた時間を埋めていかなければならなかったのだろう。
 ヨセフはかつて兄弟から受けた仕打ちを忘れ、もう、速やかなる優しさと愛をもって兄弟たちに向き合っている。私たちも怒り、憎しみを捨て、愛に向く者とならせて頂きたい。

主題<パロの夢を解き明かす>

聖書箇所 創世記 41章    (2012年 3月31日)

今日のみことば「そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」」(38)

 パロは、夢を見た。その一つは、彼がナイル川のほとりに立っていたとき、七頭の肉づきの良い雌牛が上がって来て草をはんでいたが、その後から上がって来た七頭の醜いやせ細った雌牛が、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした、というものであった(1~4)。もう一つは、七つの肥えた良い穂が出て来たが、後から出て来た七つのしなびた穂が、肥えて豊かな七つの穂をのみこんだ、というものであった(5~7)。
パロの見た夢を、解き明かすことができる者が見当たらず、そこで献酌官長に思い出されたヨセフが監獄から連れ出され、パロの前に出た(14)。
ヨセフは、パロの見た夢の内容を聞いて、その夢を解き明かした。それは、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れ、そのあとに七年間の飢饉が起こるというものであった(25~31)。それ故、この地が飢饉で滅びないために、豊作の七年間に食糧を集める行動をただちに起こすようにと、ヨセフはパロに進言する(33~36)。その結果、何とヨセフは、エジプト全土を支配する地位を与えられた(41-43)。
 ヨセフは監獄の中にあっても、晴れて監獄を出てパロの前に立っても、少しも変わらなかったことがある。それは、神がヨセフと共におられ、主にある豊かな交わりが保たれていたことであり、夢の解き明かしも神のなさることであることを明言している。信仰を見失わず、主に仕えている者として歩んであることを証ししていた。
 私たちも主の栄光を証しする者として今日を歩ませて頂きたい。

主題 <ひとつのきっかけ>

聖書箇所 創世記 40章    (2012年 3月30日)

今日のみことば「ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」」(8)  
40章には、獄中にいたヨセフが、エジプト王の献酌官長と料理官長のふたりの夢を解き明かしたことが記されている。
 ヨセフは、主人の誤解によって監獄に入れられていたが、その監獄に、エジプト王パロに罪を犯した献酌官長と料理官長の二人の廷臣が入って来た(1-3)。その二人が、同じ夜に夢を見たのであるが、その夢には意味があった(5)。それぞれの夢の意味を、ヨセフが解き明かした(12-15、18、19)。
ヨセフの夢の解き明かしは、この後のヨセフの生涯を大きく変えていくことになるが。この時点では何ら自覚されることなく、また、夢の解き明かし通りになった献酌官長でさえ、夢の解き明かしをしてくれたヨセフのことを一時的には忘れてしまっている。ヨセフにとって夢の解き明かしをしたことは、監獄と言う閉鎖的な場所における一つのささいなことであったととれる。しかし、この夢の解き明かしを導かれたのは神ご自身であり(8)、このひとつのささいなことに思えることが、大きく人生を変えていくことになっている。
私たちは、しばしば問題の解決につながらないと意味がないと安易に考えていないだろうか。ヨセフの場合、夢の解き明かしをしたことをきっかけに監獄から出れるように取り計らって欲しいと願いますが、その後、2年間も忘れ去られてしまう。その意味では、何の解決も見られなかったと言える。しかし、ヨセフがしたことは実は絶大な信頼を生み出し、将来、用いられていくことになるのである。
小さなことにも忠実に、誠実に行い歩むことが、大いなる幸いの近道になることを覚えたい。