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2012年2月

2012年2月 2日 (木)

主題 <悔い改めないで>

聖書箇所ヨハネの黙示録9章1~21節(2012年 2月 5日)

今日のみことば「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、・・・」 (20)
「9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。」と言われる一つの星とは、堕落した天使を表しているようです。堕落してサタンの手下になり、底知れないところの鍵を開くという。こんな悪を働く時代は、きわめて困難な時代である。人々が死ぬことを求めるほどの時代です。しかし、死ぬことを願っても、死が彼らから逃げてゆくのである。
 私たちは、終末の時代状況がこんなにも恐ろしいことを知ったなら、ただ不安に陥るだけでしょう。
 ところが注意深く読んでゆくと、4節には「ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。」とある。サタンの激しい破壊を神はお許しになられているにもかかわらず、神様が神を信じるものたちに付けられた印がある者には、この困難にも勝利する恵みが備えられていることがわかる。
第六の御使いがラッパを吹き鳴らす。ここには<ユーフラテス川のほとり>という実際の場所がはっきりと示されている。
 殺戮(さつりく)を実行する軍隊は2億人もいる(16)。赤、青、いおうを吹き出し、とても奇妙な印象を与える乗り物もあります。でもよく考えるときに、それは現代の武器、戦車、戦闘機、ヘリコプターに何とよく似ているではないか。
 2億という数字は、新約聖書中では最大の数字ですが、万の万倍の2倍というおびただしい数の戦闘が行われることを暗示しています。
  ところで、このような苦難の時代の中で、殺されずに生き残る神を信じない人々は、ものすごい恐怖を味わっても悔い改めないのである。相変わらず偶像を拝み続け、しかも彼ら自身が殺人や魔術をさえ行い、徹底して悔い改めることをしない。
 悔い改めは、恐ろしいからできるものではないことがわかります。神に対する信頼があって初めてできるのです。愛の心がないとできないのです。今という神の招きがあるときに、神の愛の御手を信じて、今までの罪を悔い改め、福音を信じようではないか。ここで、かたくなな心ほど恐ろしいものはないことを悟るのです。素直な心、主に心を開くものは幸いなのです。

主題<7つのラッパの響き> 

聖書箇所ヨハネの黙示録8章6~13節(2012年 2月 4日)

今日のみことば「すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。」(6)

 7つの封印が解かれることは、第7のラッパの審判がなされる展開へと続きます。これがさらに徹底した自然の災いへとなってくるのです。
ラッパを吹き鳴らす「用意をした」(6節)とありますが、「用意をした」という用語は、新約聖書の大切なことばです。バプテスマのヨハネが出現して救い主の出現の先駆者として「主の道を用意し」(マルコ1:3)主は天国に私たちのための場所を「用意し」に行くと語ります。用意周到に万端整って、最後の審判が進んで行くのです。決して思いつきや成り行き任せの終末ではないことを心にとどめておきたいと思います。
第1のラッパは地の破壊(7節)
第2のラッパは海の破壊(8~9節)
第3のラッパは川の破壊(10~11節)
第4のラッパは天体の破壊(12節)
今日は昔と比較にならぬ交通、電気などのライフラインが発達しています。それが当たり前の社会で、一つの地震が日本をマヒさせるようなことは起こりうるのです。地球的な規模で世界中がマヒするような出来事は必ず起こるのです。
今日一日も約束をしっかり受け止めて、生活を整えて行きましょう。
<今週の祈り>
天の父よ。私たちの世界の荒ぶる荒廃、権力の独善、まさに終末の様相さえ感じます。だからこそ、あなたを求め、あなたの支配を願います。難しいヨハネの黙示録も聖霊の助けにより最後まで読ませてください。アーメン

主題 <終末と聖徒の祈り>

聖書箇所ヨハネの黙示録8章1~5節 (2012年 2月 3日)

今日のみことば「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。」(3)

ついに第7の封印が解かれます。ところが半時間ほど静けさがあったのです。静けさ、それは私たちの心を覚醒させるものです。この静かな中で自分を取り戻すことができます。ところが神を信じないものにとっては、一時の患難からの解放によって気がゆるみ、悔い改めることができないのです。
私たちは、今の静けさの中で神を求める姿勢を作りたいものです。
3~5節に「聖徒の祈り」が記されています。このすさまじい終末の出来事の中に、驚くべきことに、聖徒たちの祈りが重要な鍵を握っていることがわかります。
患難は外から加えられる苦しみですが、このただ中で聖徒たちの祈りが大切な働きをし、御業が進められていくのです。とりなしの祈りこそ、神にあって、罪深い世にあって万事が益に変えられ、救いがなされるように働く奉仕です。
この聖徒の祈りが香となり、天の御座の香炉に入り、やがてこの地に投げ落とされるのです。この地上の出来事こそ、祈りの応答であるとさえ言えるようです。聖徒の祈りは弱々しく見えて、神のなさる地に、強く関係していたと知っていたでしょうか。改めて祈りに本腰を据えねばと思わされます。

主題 <患難の時代の聖徒たち> 

聖書箇所ヨハネの黙示録7章1~17節(2012年 2月 2日)

今日のみことば「それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」 (4)

 7章には4つのテーマがあり、第6と第7の封印の間、すなわち終末の時代がかい間見られます。キリスト者への希望の姿を描いています。
1、神の忍耐(1~3節)
神は四方にみ使いを置き、患難のすべてをコントロールしていらっしゃることです。また神のしもべに対して、額に印を押してしまうまで害を与えないように配慮しています。
2、残される神の民(4~8節)
ありとあらゆる民族から救われるべき完全な民が満ちるのです。私たちもまた神の選びの中に置かれていることを深く感動をもって感謝したいと思います。
3、小羊こそ救い主(9~17節)
天にいるおびただしい神の弟子たちが、御座にいます小羊に向かって、力の限り賛美しているのです。大声で、とは全力を尽くしている姿でしょう。ところであなたの大声をだす場はどこでしょう。全力を尽くして主をほめたたえたいものです。
4、白い衣を着ているクリスチャン(13~17節)
どんな患難をものりこえる聖徒たちがいます。彼らは行いからではなく、主の恵みの泉からいのちの水を飲んだ人々でした。

主題 <7つの封印が解かれる> 

聖書箇所ヨハネの黙示録6章1~17節(2012年 2月 1日)

今日のみことば「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。」(9)

だれも解くことができないとヨハネは号泣するが、ただひとりほふられた小羊なるキリストが終末の歴史を開封できるのです。主を弱々しく考えている人はいないだろうか。主こそ、まさに歴史の主なのです。主こそ真の神なのです。
聖書では、7つという数が完全な意味をもっています。封印も7つありますが、本書は6つまで開かれます。封印が神の終末の世界の歴史の展開される経過を示して完全な計画が遂行されるという意味です。
この解釈については、長い教会の歴史から説明を試みる立場の人もありますが、やはり終末の出来事として考えたほうが妥当でしょう。
この箇所の白い馬、赤い馬なども霊的な真理を表し、患難時代におけるこの世の支配者をさしているようです。
小羊なる主イエス様が、第6の封印を解く(12~17節)とき、大きな天変地異があって、それは想像を絶するほどのことが起こるのです。このときに、地上で権力をふるっていた地上の王たちが岩間に隠れ込むときが来ます。そして、「御座にある方のみ顔と小羊の怒りとから私たちをかくまってくれ」と言うようになるというのです。
神の御顔、それはキリスト者にとってかけがえのない慕うべき臨在なのですが、神を信じない者にとってそれは恐ろしい存在となるのです。小羊の怒りとは珍しい表現です。あの柔和なロバの子に乗ってエルサレム入城した主が怒られるのです。この怒りほど恐ろしく、本物の終末における審判なのです。

主題 <ほふられた小羊に栄光が集まる>

聖書箇所ヨハネの黙示録5章1~14節(2012年 1月31日)

今日のみことば「彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富みと、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」」(12)
天に一つの巻き物があります。御座に座っている方の手の中にある封印された書こそ、世界の歴史に関わる、いや近未来に直結した預言書なのです。封印されているこの書をひもとくに値する者はだれもいません。このゆえにヨハネは激しく泣いたのです。しばしば、自分こそこの封印を解くにふさわしいと沢山の人物が登場しました。政治的指導者、宗教のカリスマ性をもった偽キリストや預言者たちは自らをそう語り、仰がれた人も多かったのです。封印を解ける人とは、神の世界の歴史を遂行する方であり、神のご計画を導かれる方です。ここに、ユダ族からでたダビデの根(5節)、ほふられたと見える小羊が立っていた(6節)といわれています。主イエスこそこの世界の歴史の封印を解き進めるお方である、というのです。この小羊がみ座にすわる方から巻き物を受け取られ(7節)、ついに主にあって歴史が動き始めたのです。
 ところで、この時に、金の鉢に入った香りが天に上ってきたことが8節に記されています。「この香とは聖徒たちの祈りである」。神が歴史を動かされようとしている時に、聖徒たちの祈りが、神のご計画の中に入ってくるのです。この祈りが地上の神の裁きの中に加えられるのです。
御座の回りにいる大群衆は、数え切れません。万の幾万倍、千の幾千倍の人であり、小羊の尊い血によってその衣を白くされ、栄光の御国に移された人々のことです。
彼らは大声で賛美をささげます。救われた喜びと感動があふれて、力限り大声で歌います。全身全霊を上げて神をほめたたえるのです。日毎の私たちの賛美もまた、こうでありたいものです。
「ほふられた小羊は力と富みと知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるのにふさわしい方です。」ほふられた主は、釘打たれ、真っ赤な血を流し、恥ずかしめを耐えて遂に死なれ、本当に受難の中に生涯を終えたのです。
この恥ずべきお方を、この世の人々は愚かと思い、無駄な死と思うでしょう。しかし、救われた私たちにとって、主の犠牲の血潮は尊い神の愛です。
ほふられた主こそ、ありとあらゆるもの、力も、栄誉も、賛美も、受けるのにふさわしい方です。今日この方に向かって、私たちのすべてをもって賛美をささげましょう。

主題 <天での光景と長老たちの礼拝> 

聖書箇所ヨハネの黙示録4章1~11節(2012年 1月30日)

今日のみことば「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」」(1)

4章は地上の教会に見られるあらゆる教会の姿に対比するように、天上にある教会、すなわち天のみ国の素晴らしさを啓示しています。
 「天に一つの開いた門があった」(1節)とあります。天への開かれた門は3:7の主イエス様が見せてくださるものであり、救われたすべての者に見ることを許された特権であります。天にみ座があり、そこに座する神様がおられたのです。周囲にある宝石などによって示されている光輝く栄光のみ座があり、24人の長老たちが礼拝をささげているのです。4つの生き物が、神のみ業をほめたたえるのです。神が「聖なる方」であることを3回繰り返すことは、神が完全であることを意味するでしょう。そしてイエス様を3つの点でほめたたえます。
1) 神である主 
2) 万物の支配者 
3)昔いまし、今いまし、後に来られる方
24人の長老たちもひれ伏して礼拝します。実に旧約と新約の世界が一つに解け合い、主イエス・キリストへの最大級の礼拝が日毎にささげられているのです。

主題 <熱心になって悔い改めなさい>

聖書箇所ヨハネの黙示録3章14~22節(2012年 1月29日)

今日のみことば「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(19)

教会には、叱責のない教会もあれば、この教会のように賞賛されないで非難されてばかりいる教会もあります。しかし、だからといってこの教会は神の愛から見放されていたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」と勧められているからです。
ラオデキヤの教会には、迫害もなく、偶像礼拝や不品行の罪もありませんでした。むしろ彼らは平和と繁栄のゆえに、自己満足におちいり、なまぬるい信仰になってしまったのです。つめたくも、熱くもないことは、キリストに対し反対もしないし信仰と従順に徹していたわけでもないことです。いたずらに無関心と不徹底で信仰生活を送ることは、主は喜ばれないのです。
いいかげんなどっちつかずの信仰は、なまぬるいものであり、主はそういう者を口から吐き出そうといわれます。我慢することができないというのです。
今、悔い改めましょう。主の愛による配慮を思って。

主題<聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方> 

聖書箇所ヨハネの黙示録3章7~13節(2012年 1月28日)

今日のみことば「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」(7)

 ただ一つ、非難されない教会です。兄弟愛という素晴らしい名前を持つ町に立てられたこの教会は、海外宣教の燃えた教会の模範とされてもいます。
キリストは聖なる方、真実な方といわれます。聖とは、しばしば誤って理解しやすい言葉で、単なる道徳的な完全ということよりも、むしろ被造物(主として人間)を神のものとして区別してゆく神の性質であります。そこに人間をはるかに超越した神の存在と共に、人間と関わられる神の働きを見ます。神の真実とは、アーメンと対応する言葉であり、神ご自身の御言葉を成就することを意味するのです。
神は、決して人間の力を頼りにしたり、偽ったりなさらずに、神の語られたことを実現されるのです。
ルカの福音書1章45節「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」というマリヤの信仰告白には、神の真実をかける確信が記されています。マリヤもエリサベツも共に、ご自分を偽ることができない神の御言葉を信じて祝福を受けたのです。
信じる人には、神の御国は開かれています。神の語られた言葉を信じる人になりましょう。天国のカギが主の中にあるのですから。

主題 <目をさましなさい>

聖書箇所 ヨハネの黙示録3章1~6節 (2012年 1月27日)

今日のみことば「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」(2)

サルデスの教会は、表面的には立派だったのかも知れません。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」といわれるのです。そこには、自分は大丈夫だ、みんなも大丈夫だという見方が定着していたのです。けれども、実際は死んでいたのである。不思議な近づきかたですが、驚かされます。
「目を覚ましなさい」と呼びかけています。目を覚ます、とは眠りについた者が、覚醒して新しい歩みをすることであり、信仰の炎を燃え立たせることです。自分が死んでいるほどであると知って、悔い改めるのです。その時はじめて、他の人々を生かせる働きが始まるのです。
自分の歩みに気付かない、そのことを預言者は「白髪が生えてきているのに気付かない」愚かさにたとえています。自分の真実に目をそらし、適当にお茶を濁すような生活は、決して自分を建て上げないし、他の人を建て上げることができないのです。
悔い改める、そこに緊急な姿勢が見て取れます。主がいつ来られるか、終末がいつであるかを問わないで悔い改めるのです。その熱心を主が求めておられます。