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2012年9月

2012年9月20日 (木)

主題 <弱さの中に奮い立てさせられる主>

聖書箇所 士師記 3章      (2012年 9月23日)

今日のみことば「エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」 (31)

 ヨシュアの死後、ほどなくして、イスラエルは主に背いた。神は民をアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡された(8-11)。この苦しみの中で主に呼び求めたイスラエルに、主はオテニエルを最初の士師として立てられた。続いて、エフデ、さらにシャムガルを士師として立てられていく。
 士師たちは特別に優れていたという面はなかったように感じさせられる。特に、エフデの「左きき」は、直訳では「右手の不自由な」と訳される。むしろ弱さを持っていたということを思わされる。シャムガルについては、戦いに用いた「牛の突き棒」は、何らかの農機具を指すと思われる。彼は、大した武器も用いないで六百人のペリシテの戦士を倒したのである。
 彼ら士師たちは、「主の霊が彼の上にあった」(10)ゆえに、民たちを守り導いていったように、主の働きがあってその務めを果たして行った人々であったと言える。
 パウロは「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)と言ったことを思い出す。
 弱さの中にも主の力、働きを見させて頂けることを覚えて日々の戦いに出て行きたいと思います。

主題 <戦いの中で取り扱われる主> 

聖書箇所 士師記 2章      (2012年 9月22日)

今日のみことば「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」 」(22)

主の契約の民は、カナン人と契約を結んだり、異教の慣習を残してはならなかった(2)。しかし、イスラエルの民たちは主の命令に徹底することができず、何度も失敗を繰り返す民に、主はさばきを伝えた(3)。民は声をあげて泣いたが、真の悔改めには繋がらなかった(4、16-19)。ヨシュアとその世代の民は、失敗しつつも、主の大きなわざを見、主に仕えることを知っていた(7)。しかし次世代の者は、主を完全に捨て去り、他の神々に仕えるようになってしまった(10)。
 11~19節には、士師記の中にたびたび繰り返されるパターンを見る。それは民の背信→主のさばき→民の悔い改め、嘆き→士師による救い→ふたたび背信というパターンである。ここでもイスラエルは、さばきつかさにも聞き従わず、士師の死後はなお堕落する(17、19)。民は主のあわれみによってのみ守られるのだが(18)、不誠実を犯し続けていく。
 主はカナンの先住民を、イスラエルの周囲に残された。それはイスラエルが「主の戦い」を貫徹できなかったためだが(20)、主は戦いを与えることによって、実際にイスラエルが主に従うかどうかを知ろうとされた(21、22)。困難な闘いの中で、それでも主に従っていくかを試される、訓練されていくことがある。私たちも日々の闘いの中で、信仰の勝利を得ることができるように祈ろう。

主題 <主からの使命の不徹底>

聖書箇所 士師記 1章      (2012年 9月21日)

今日のみことば「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」(19)  

 士師記は指導者ヨシュアの死後のイスラエルの民がカナンの地にてどのように生きたかが語られており、ヨシュア記に引き続くイスラエルの歴史を見ることができる。
 ヨシュアは主の民を約束の地に導き、各部族ごとに相続地を割り当て、そこを占領するようにと命じていた(ヨシュア23:4~6)。民は割り当てられた地を、主のものとしていく必要があったが、徹底していなかった。
 最初ユダ族は、ペリシテ人の地において勝利を収めたようだ(18)。しかし、占領できなかった。谷の住民は鉄の戦車を持っていたからだと記されている。主が共におられたのに勝利を完遂することができなかった(19)。ベニヤミン族も同様であった(21)。そこには最後まで占領を徹底しない、イスラエルの問題がある。
しかし共通の弱さが私たちにもあるのではないだろうか。捨てるべきものを捨てず、やめるべきものをもやめない甘さはないだろうか。自らの力ではなく、共におられる主の力に信頼する必要があるのは、現代の信仰者も同様である。小さな妥協は、次の大きな妥協を生む。
 士師記の最大のテーマは、民の不徹底、不従順と言える。追い払うべき民を追い払わず、やめるべきことをやめなかったので、霊性は落ちていった。しかし、ヨセフ族には完全な勝利があった(22-26)。主の臨在と共に、知恵を用いての勝利であった。民が主に従うことの重要性は、繰り返し強調されている。失敗のときにこそ、真の悔改めの実を結ぶチャンスとしよう。

主題 <私と私の家とは、主に仕える> 

聖書箇所 ヨシュア記 24章   (2012年 9月20日)

今日のみことば「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15)

 シエケムで再び神様の契約をイスラエルの中に語りなおしている。23章にもある通りの祝福とのろいの分れ目は、主を愛し、主を恐れ(14)、主に仕える(15、18、21、22、24、)ことです。
 指導者ヨシュアは『私と私の家とは』と控え目に語るが、イスラエルに激しい挑戦をしたのである。最後にいのちある限りにおいて、人々に対して、主に仕えるか、偶像に仕えるかを迫ったのです。
 それは主なる神が『聖なる神であり、ねたむ神である。』(19)ことを深く知っていたからです。神を愛する者には恵みを千代にまで及ぼし、従わないものには神からの審判がある。
 イスラエルが出エジプトの後、シナイの荒野で不信仰、不従順のためにどんなに神の心を傷付け、悲しませ、主のことばとおりに滅んでいったことか。
31節にあるように、『そのすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた』という聖句にギクリとさせられている。
 控え目だが、ヨシュア自身とその家族は腹が決まったのです。そして全イスラエルに霊的決断を促している。今、どう応答すべきなのであろう。この世半分、神半分では祝福を受けそこなう。

<祈り>主よ。ヨシュアの激しい主を愛する心に動かされています。生涯を貴き主に仕えます。アーメン。

主題 <十分、気を付けて、主を愛しなさい>

聖書箇所 ヨシュア記 23章   (2012年 9月19日)

今日のみことば「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」(11)

この聖句には不思議な感動が伴う。「あなたがたの神、主を愛しなさい」という内容だが、「十分気を付けて愛せよ」と命じられている。
ヨシュアは、年老いてこの世を去って行く自覚を持つがゆえに、大事な遺言を残している。随分長い間を荒れ野からカナンまで、怒濤のような信仰生活を歩んできたヨシュアにとって、残してゆく人々へただ一つの遺言がこれなのです。時代は違っても、この教訓は深く心に刻んでおかなくてはならない。
第1に、あなた方の神があなたのために戦うという驚くべき事実である。
 この神についての深い霊的信仰こそ勝利の秘訣である。この神にのみにとことん仕えるのです。
第2、もし堕落して神に仕えないなら、同じ約束の神の言葉が裁きに変わる
 のです。ぞっとするようなかとばが後半に記されている。
第3に、それゆえ十分に気を付けてあなたの神、主を愛するのです。
 十分気を付けてとはなし得る限りを尽くしてである。

<祈り>主よ。あなたの大きな愛と真実のゆえに、祝福と裁きとが共にある事を知り、主に仕えさせてください。アーメン。
<きょうの課題>

主題 <語ったことばを聞いて満足した> 

聖書箇所 ヨシュア記 22章   (2012年 9月18日)

今日のみことば「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。」(30)

 人生にも信仰生活にも思いもよらぬハプニングに見舞われて、大騒動に巻き込まれることがある。ヨルダン川の東に所有地を得たルベン、ガド、マナセ、の半部族は主の律法に違反して巨大な祭壇を築いて大きな誤解を招くことになる。
 このため、ついさっきまで同じ民族として力を合わせ戦った仲間が、すんでのところで戦う危機に直面したのです。小さなつまずきによって大事件に直面した時、どのような態度で臨んだらよいのだろうか。この聖書の箇所から学んでみよう。このような危機に当たり、賢明な処理をしたことがわかる。
1、処理が速かったこと。問題を困難にするケースでは、遅らせて 
 失敗する場合がままある。勇気が必要だが、問題の解決への迅 
 速さを学びたい。
2、適切な調査がなされた事。
3、両者が心を開いてまっ正面から話し合った事。この心を開くこと
 が最も大切である。
4、十二部族は一つであるという最高の動機でもって解決したので
 ある。
 こうして、互いに語った相手の言葉を聞いて満足したのです。
33節にもこれに満足したと念を入れて記録している。ハレルヤ。
<祈り>主よ。問題がないことよりも、問題に対して熱い心で真剣に取り組む情熱をください。アーメン
<きょうの課題>

主題 <主が約束されたすべての良いこと>

聖書箇所 ヨシュア記 21章   (2012年 9月17日)

今日のみことば「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(45)

 一つの部族として土地を持たないレビ族は、各地域ごとに放牧地を持つことになる。こうして、すべての約束の地の相続分割は完了しました。
 しかし現実はまだ占領し終わってはいなかったのです。約束を握って信じたのである。『主はすべての敵を彼らに渡された』(44)事を確信した時に、本当の勝利がきた。全部が手に入った時わかる、信じられたでは本物の信仰ではない。祈ったなら、物事が変わるにはまだきわめてほど遠いように思えるときに、信じて感謝することこそ、主に喜ばれるキリスト者である。
 『主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現した。』(45)
 神様の側から見る時、全部がイスラエルのものになっておます。現実は必ず後からついて来ます。すべてのよい事は、一つもたがわずみな実現する事を霊の目でとらえて受入れ、感謝をし始めよう。賛美をし始めよう。困難な問題も、戦いも、神の側から見つめて感謝する成長した信者になろう。
 コリント2章9節も並行して読もう。

<祈り>主よ。あれほど恐れていた戦いも、あなたが共にいてくださるゆえに一つもたがわず実現すると信じ感謝します。 アーメン
<きょうの課題>

主題 <のがれの町をあなたがたのために>

聖書箇所 ヨシュア記 20章   (2012年 9月16日)

今日のみことば「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、 」 (2)

約束の地に入った時に、神の民族らしい生活を形造る一つの方法として、『のがれの町』を定めたのです。神の民は神の律法に生きてはじめて輝いてくる。しかし、どんなに一生懸命生きたとしても、過失という問題が起きるのはやむを得ないことです。
 この時に神様はあらかじめ「のがれの町」を備えさせたのです。誤って人が殺されるという場合、復讐によってもう一つのあやまちが生ずることがままあるからです。
 この場合、その時の大祭司が死ぬまでこの町で過ごすなら、完全な自由が約束されるのです。一人の大祭司の死とはかくも重大な意味を持っていた。
ですからその時代に何人もの生命の保証人となっている。
 大祭司の死が誤った殺人犯を解放することから、新約の主イエスさまの十字架の死は、数多くの罪人の解放をも予告しているようにも思える。
 『あなたがたのために定め』(1)とある事に心を留めよう。主は『彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』と、罪人の代わりにとりなしていることを覚えたい。この主の十字架の祈りこそ、『のがれの町』の祈りであり、救いのための祈りである。

<祈り>主よ。しばしば罪を犯すものです。十字架上の本当のとりなしによってゆるされていることを感謝します。ア-メン。
<きょうの課題>

主題 <相続地をヨシュアに与えた> 

聖書箇所 ヨシュア記 19章   (2012年 9月15日)

今日のみことば「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。」(49~50)

『こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。』(51節)のです。なんと素晴らしい日を迎えられたでしょうか。幾多の困難があり、主の助けを受けてここまで来たのです。
カナンの相続地のすべてを終えた後に、イスラエル人はヨシュアに一つの地を与えた、と記されている。無欲な指導者ヨシュアは、自分と自分の家族のための相続地など考えないで働いてきたのです。しかし、最後に民衆のほうから相続地を備えるのです。
 ヨシュアの側で要求したのではないでしょう。かれは、自分の相続地は神ご自身であり、目に見えないすばらしい報いをいただいていて十分だったのであろう。そうだからこそ、人々は相続地を持つことを勧めたのだと思えます。
 船が難破したときに、最後に船から出るのは船長です。無事に船が港に着いたときに最後に降りてくるのも船長です。
 奉仕第一に生きたヨシュアの気高い人格にふれた思いがする。私たちもまた、主第一として生きる者でありたい。他者が第二になり、自分のことが終始、第三になるようにありたいと願うのです。

 <祈り>先ず神の国と神の義を第一とさせてください。アーメン

主題 <いつまで延ばしているのか>

聖書箇所 ヨシュア記 18章   (2012年 9月14日)

今日のみことば「そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。」(3)  

 七部族の占領すべき地についてヨシュアは民を励ましている。『いつまで延ばしているのか』 この聖句は、さばきの言葉ではないだろう。
 約束の土地を前にして、かつて自分がそうであったように、各部族から三人ずつ斥候を選び、土地の調査をし、割り当てたのである。
 約束を受けとりながら、立ち止まっている経験はないだろうか。自分の能力をはかり、いたずらに嘆いてはいないか。戦う相手に気を取られて、主なる神の約束がずっと後ろに後退していまいか。しかも手をこまねいて、いたずらに時間を使っていないだろうか。
 『いつまで延ばしているのか』と今日も、主は私に対して、叱責というよりも、新たな励ましを与えている。取るべき所なお多しである。約束をとらえる信仰と、そこに踏み込む信仰を働かせなくてはいけない。
 ところでレビ族には割り当て地がない。主の祭司として仕えることが、その相続地であるからだ。祭司として仕えることは全イスラエルの祝福のために全生涯、全家あげて仕えるのである。それはきわめて大きな栄光であると共に、責任の大きさもはかりがたい。献身者のためにも祈ろう。

<祈り>主よ。約束をいただきつつも、恵みの祝福を受けるのを延ばしてしまう怠惰から解放してください。ア-メン。
<祈りの課題>