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2012年7月

2012年7月27日 (金)

主題 <みことばを聞き、実行する>

聖書箇所 申命記 5章     (2012年 7月29日)

今日のみことば「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。」 (32)

 私たちにとって、神はどのようなお方である考えているだろうか。モーセに律法が与えられた時、シナイの山の周りに立っていたイスラエルの民はこのことを知らされた。
 民たちは、自然界に恐ろしい力が示されたこと(火と雲と暗やみ)を目撃したが(22)、もっとはっきりと示されたのは、神の臨在の前に自らの小さなことを深く感じたことであった(25)。その印象は全く強烈なものであったので、民の代表者たちは自分たちのいのちそのものが危険にさらされていることを知った。民たちはこのような状況の中で主の声を聞いたのである。そして、民たちは主に次のように応答した。「私たちは聞いて、行ないます」(27)。
 よく聞くためには静かにしなければならないとは限らない。神は、静かな細い御声で語られるばかりでなく、恐ろしいばかりの尊厳をもって語ることもおできになる。重要なことは、私たちが主のみことばを聞いて、それを心に留めることである。
 神に従うことができるために、神のことを何もかも理解していなければならないわけではない。神は、私たちを通してご自分の目的を成し遂げなければならないという私たちの理解を用いられるのは確かである。しかし、重要なことは、きょう、みことばを理解したなら、そのみことばを実行することである。
 ここでもまた、主は、こういうふうに神のおきてに忠実に従うことを、その地における社会の安定に結びつけておられる(29)。

主題<神の御声に聞き従うことの祝福>

聖書箇所 申命記 4章      (2012年 7月28日)

今日のみことば「あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」(31)

 25~31節は、一つの仮定として語られているが、後にこれがイスラエルの歴史において事実となった。それは、アッシリヤ捕囚であり、またバビロン捕囚であった。
 しかし、あわれみ深い神は、罪を犯した民を捨て去ることなく、悔い改めて立ち返る機会を備えておられた。それは、先祖たちに誓った契約のゆえであった(31)。人間同士の契約ならば、一方が破れば契約は無効となる。しかし、神が与えてくださる契約は、神ご自身が真実であられるので、いったん結ばれると最後まで全うされるのである。私たちは、このような神の恵みによって、救われ歩むことができるのである。
 32~40節には、神によって選ばれたイスラエルが、いかに多くの特権にあずかっていたかが示されている。たとえば彼らは、「火の中から語られる神の声」を、直接に聞いたのである(33)。
 神の偉大なみ力は、何よりも「出エジプト」の出来事に、明確に現された(34)。それゆえにイスラエルは、「主だけが、神であって、ほかには神はない」ことを、自らが知るとともに、他の人々に証しする責任があった。
 40節には、主のおきてと命令を守る者への祝福が告げられている。私たちは、「心に留めなさい。………王のおきてと命令を守りなさい」とあるように(39、40)、特権にあずかっているということは、その一方で大きな責任を課せられていることを忘れてはならないのである。

主題 <信仰の継承>

聖書箇所 申命記 3章      (2012年 7月27日)

今日のみことば「私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。」(21)  

3章前半には、ヨルダン川の東に相続地を得たルベン、ガド、マナセの半部族に対する命令が、後半には、モーセの後継者のヨシュアのことが記されている。
 18~20節に書かれている、この命令により、彼らの信仰は試された。彼らは、自分たちさえ良い土地を与えられれば、それでよしとすることは許されなかった。まだ約束の地を獲得していない部族のために、共に戦う必要があった。その場合、自分たちの妻と子どもたちを、与えられた町に残していくには(19)、強い信仰が求められた。命令と約束を与えられた主を、彼らが信じきることができるかどうかにかかっていた。信仰の真価は、多くの場合に、困難に直面して問われるものである。
 モーセは24~25節にあるように、自らが約束の地に入ることを求めたが、その願いは聞き入れられなかった(26)。その代わりに、ピスガの頂上から、かなたに広がる約束の地を見ることを許された。
 神はモーセに代わって、彼の従者であったヨシュアを、約束の地へ民を導き入れる指導者として立てられた(28)。ヨシュアは、モーセと比べれば若い指導者である。だから、モーセはヨシュアに命じ、彼を力づけ、励ます必要があった。
 ヨルダン川を共に渡る二部族半も、若い指導者ヨシュアも、信仰においてさらに成長することが求められた。信仰が成長するための一つの秘訣は、神の素晴らしいみわざを、目でみて確認することではないだろうか(21)。

主題 <エドムとモアブへの主の憐れみ>

聖書箇所 申命記 2章      (2012年 7月26日)

今日のみことば「主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」(9)

 この箇所には、イスラエルの同族への神のあわれみが記されている。その同族とは、エドム民族(2~8)とモアブ民族(9~15)である。
 エサウは(4)、族長イサクの双子の長男であったが、一杯の煮物のために、弟ヤコブに長子の権利を売り渡してしまった(創世25:32~34)。エサウは父イサクの死後、ヤコブと別れ、セイルの山地に住みついた。そしてエサウの子孫が、やがてエドム民族を形成するようになった。神はイスラエルの同族に、あわれみをかけておられるのである(5)。同族エドムから奪わなくても、神は四十年にわたって、イスラエルの必要を満たしてこられたのである(7)。
 モアブ民族は、アブラハムのおいロトと、彼の姉娘との間に生まれた子モアブの子孫である(創世19:37)。モアブという名はヘブル語で「父によって」を意味し、今日でいう近親相姦の罪を思い起こさせる名である。しかし、神はモアブに対しても、エドムと同じようにあわれんでおられた(9)。
 神はイスラエルのみならず、同族であるエドムやモアブに対しても、深いあわれみをお示しになっておられるのである。
 13節のゼレデ川は、エドムとモアブの国境となっている川である。この川を渡るまでに、「その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった」とある(14)。これは神が1章35節で言われたことの成就である

主題 <神への不従順>

聖書箇所 申命記 1章      (2012年 7月25日)

今日のみことば「しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。」(26)

 各部族から一人ずつ、十二人の偵察隊が約束の地に遣わされた。報告によれば、そこは良い地であった。神はモーセを通して、イスラエルの民に約束と命令を与えられた。1章には神の約束と命令が、多く繰り返されている。
 それにもかかわらず、民は主の命令に逆らった(26)。その理由はアナク人(背が高くて強い巨人として恐れられていた民)を見たと言って、人々の心をくじく者たちのことばに、惑わされたからである(28)。私たちも人生のいろいろな局面で、神の言われることを信じるのか、それとも人のことばを信じるのか、その選択を迫られることがある。
 エジプトを脱出した成人男子は約60万人だったが(民数1:46)、そのうち約束の地に入ることができたのはエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアだけだった(36、38)。偉大なモーセでさえも、約束の地に入ることを許されなかった。何という厳しいさばきの現実がある。
 しかし、先祖アブラハムに約束されたことが、取り消されることはなかった(39)。ここに、私たちは神の真実を見ることができる。
 41節以下には、もう一つの、不従順の結果が記してある。「行くな」との主の命令に逆らった結果、彼らはエモリ人に敗北したのである(44)。
 私たちの心の中に、イスラエルの民と同じような、不従順の罪がないかを考えてみよう。

主題 <悶着は未然に防ぐこと> 

聖書箇所 民数記 36章     (2012年 7月24日)

今日のみことば「主がツェロフハデの娘たちについて命じておおせられたことは、次のとおりである。」(6)

 民数記の最後において、全体から見て小さな問題について主のみむねを尋ねています。悶着は未然に防ぐことが望ましい。小さな問題から、大きな問題になってしまうことがままあるものです。小さいからと問題を軽視しないで、いつも主のみこころが何であるかを求める必要があることを教えられるのです。
 神は他部族に嫁がせずに同じ部族と結婚せよと命じられている。とても自由が制限されているように感じられるかも知れないが、神の相続地として受け取る信仰が重要です。そして彼らはその命令に服従している(11)。ここに主の民の姿勢を確立して行く信仰を学べる。
 神は自由を許可されておられるが、祝福は神のみこころの中にある時にのみ受けられる恵みである。金魚の自由は、自分勝手の自由ではなく、水の中にあってはじめて自由になり得る。自由を貴ぶことが、神のみこころとの調和できるようになることと同じでしょう。
 神のご支配の中の自由の素晴らしさをどれほど知っているだろうか。
どんなに多くの人々が神のおきてを拒否し、自己の思いの中で戦っていることだろうか。神のみこころは最善あるのみです。

<祈り>主よ、私たちの心が満たされているとき、より輝き、労役も喜びと感謝をもってさせていただくことができます。神に近づき祈る時を優先させて下さい。アーメン

主題 <逃れの町> 

聖書箇所 民数記 35章     (2012年 7月23日)

今日のみことば「あなたがたのために6つの、逃れの町としなければならない。」(13)

 神はイスラエルの国家がつくられる中に、あわれみによって<逃れの町>の律法を与えられます。この逃れの町は、誤って罪を犯した人の避け所であす。人間とは生きる限り過ちを犯してしまう。
『神は我らの避所』(詩篇46篇1節)であり、救いの場であり、道です。
今では私たちに、ひとり子イエス・キリストが与えられており、罪の避所とされているのです。
逃れの町とキリスト・イエスとの共通点は
1、罪人が逃れる町です。それがイエス・キリストです。
  ロ-マ8:1には『今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』とあります
2、いつもこの町の中におらなければなりません。
 この町を出ると報復者に殺される運命にあうのです。同じように、キリストから 出てしまうと神の恐ろしい怒りによってさばかれることになるのです。
3、祭司が死ねば自由になる。そこに主の十字架と相通じる。
 キリストは一度死なれた。ですからこれ程確かな逃れ場はないのです(6:18~20)。ただし、故意に罪を犯した者は守られないのです。私たちはキリストに故意に逆らい、聖霊を汚し続けるならゆるされることはないと語られている。神のあわれみを軽んじてはなりません。やわらかな心で悔い改めよう。

<祈り>主よ、私たち弱い者のために罪のさばきから逃れる道を備えてくださいました。あなたのところにいつも逃れさせてください。

主題 <あなたがたの相続地>

聖書箇所 民数記 34章     (2012年 7月22日)

今日のみことば「あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおり。」 (2)

 天地の創造者が選民に与えられた南西北東の地は、小さいと思えるほどです。四国より少し大きい地域です。あるとき私の子供が社会科の地図を見ていて、イスラエルがこんなに小さいのかと驚いていたのを思い返します。
 しかしここは、極めて特異な地形で海抜三千m近いヘルモン山があるかと思えば、海面より400mも低い死海があり、ヨルダン川近くは獅子がほえ、わにが住むかと思うと、エルサレムには時に雪が降るのです。小さい狭いこの地はアジア、アフリカ、ヨーロッパ三大陸の気候と動植物があるのです。
そしてこの地から、偉大なアブラハム、モ-セ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルを輩出し、神のひとり子イエス・キリストがこの世に出現されたのです。
 神はやはり選びの民を祝福しておられるのです。この約束の地、乳と蜜の流れる地こそ、全世界から厳選されて神が選ばれた場所でした。
 それだけに、一方では周囲からの敵に囲まれ、自然環境の厳しさがあったのです。祈りにも、信仰にも、愛や神のおきてに従うにも、必死の生き方が問われているのです。約束の地(His Land)を黙想したい。
 あなたにとっての相続地が小さいと思えることに不平や不満を持ったことはありませんか。いいえ、最善な場所なのです。

<祈り>主よ。与えられた立場や賜物の大きさに感謝できる心を下さい。賜物の大小や、派手、地味を越えて感謝します。

主題<人生という旅路> 

聖書箇所 民数記 33章     (2012年 7月21日)

今日のみことば「旅程は次のとおりである。」(1)
 長い40年間の旅行の経路が記されている。今までの出エジプトから、荒れ野の旅の、実に長い長い時間でした。この間に起こった数々の出来事を思い起こします。不信仰のための失敗、神からの超自然的な祝福、本当に神が生きて、自分たちを愛されている事実を見てきました。
 旅程とは私たちの人生そのものです。生まれてから死ぬその日まで、毎日旅を続いています。それも二度と繰り返すことのできない旅行、戻ることのできない人生です。過ぎ越し方を考えるとき、どれだけ神のみこころに適って歩んできたかと、あなたの旅程を顧みていただきたい。神の忍耐と希望の導きによって生かされてきました。でもその事実を忘れて、絶望的な思いにとらわれたり、振り返ると恥ずかしい限りである。
 イスラエル人もこの歴史に沢山の汚点を残してきた。しかし私たちは過去に対してキリストの血潮をあおぐことができます。
そして将来への開かれた展望に期待しあらゆる機会を逃さず、ただ神の栄光を現し、善を行うものでありたい。
ペテロは次のように忠告するのです(1ペテロ2:11~12)。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」
<祈り>主よ。今年も、その旅路まことに失敗だらけの恥ずかしい歩みですが、あなたの血潮できよめ新しい歩みのために備えてください。  

主題 <願いがかなうことの再考>

聖書箇所 民数記 32章     (2012年 7月20日)

今日のみことば「もし私たちの願いがかないますなら………」(5)  

 ルベンとガド族の選択は、多くの教訓を含んでおります。約束の地を前にしてどのような選択をしていったか、という点についてです。
 ルベンとガド族は、多くの家族と家畜を持っていました。約束の地はヨルダンを渡った土地です。ところが、約束の地よりも、ヨルダン川の手前の方が緑豊かで、多くの家族と家畜を養うのに非常に有利に見えました。
 その願いが出されたとき、モ-セたちは悩みました(6~7節)。このことが、イスラエルの意気をくじいたのです(7,9節)。
 彼らの願いは、戦いに出る事を条件で許されました。「もし私たちの願いがかないますなら」という願いが申し出のとおりにかないます。この知らせを聞いた一族はきっと、手をたたき、歓声をあげて大喜びをしたに違いないのです。
 しかし、彼らの目に良く見える場所は致命的な欠陥がありました。自然の国境が無く、しかもイスラエルの他の部族と孤立していたので、背後にある強い外敵によって、真っ先に滅ぼされてしまうのです。
 こうして見ると、利殖の道に明るい者が必ずしも最後の勝利者にならないことがわかります。私たちの得をする方法を願うことが本当の幸福をもたらさないことも知ることができます。
 神は彼らの願いを聞かれた一方で、たましいをやせさせられたという現実です。時に、願いが閉ざされている困難のうちに、最善の種が蒔かれていたということがしばしばあります。
<祈り>主よ。直ぐ目に見えるところで損得を考えやすいのですが主に従う ことによってのみ最後的な祝福を得られることを心に覚えさせてください。