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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <神よ。公正にさばいてください>

聖書箇所 ヨブ記  31章     (2013年6月 2日)

今日のみことば「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ」 (35~36)  

これまでヨブは、自己の主張をどこまでも述べてきたが、最後はやはり神の公正なさばきを仰ぎ求めるしかないのである。
 ダビデもまた、神に訴えている。詩篇26;1-2「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」 なんという切実な訴えであろうか。最後はただ神のみが、この私の弁護者、支え手となってくださることを知っているのは何という幸いだろうか。何もかも知っている神だからこそ、この私の弱さや問題、罪を見抜いておられる。自分のずるさやエゴを知り抜いておられる。だが、そうした神に対して自己の保護を求めるのである。
 私たちの安心の土台はここしかないことである。そして神は私たちの保護者、弁護人として支えてくださるのだ。
第一ヨハネの手紙2;1「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」
 だれかが、どんなにひどい言葉や態度で扱っても、主イエス・キリストだけは私たちの弁護者であることを覚えたい。

主題 <ヨブの立たされた苦悩の率直な激白> 

聖書箇所 ヨブ記 30章      (2013年6月 1日)

今日のみことば「私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。」(26)

ヨブの置かれた立場がどれほどに困難であったかを想起しよう。29章にあったすべてが幸せであった頃とは全く反対の立場である。
どうしてこのような状況で嘆かずにいられようか。叫ばずにいられようか。しかし、ヨブの周囲の人々はただ眺めるだけだ。苦難の叫びを見て見ぬふりをするだけだ。いや、苦しむ人間にはとても人々は冷酷なのだ。見下げ(1)、かつての使用人とその子供らがあざけるのだ。
前任地に一人の信徒がいた。富豪だった家族が戦後の農地解放によって小作人たちが手のひらを返したようにふんぞり返り、攻撃された。息子が不良になり荒れていたときに、息子の大学の教授がアララギ派の歌人でキリスト者であったので、聖書に導かれ洗礼を受けた。そこから本当の希望に変えられたのだ。
ヨブの苦悩をほんの一部だがわかる。しかもこうしたときに、神がヨブの訴えを少しも顧みてくださっていないと思えるのだ。こうしたときにこそ、神だけは見捨てないと言ってほしい。光を望み、幸福を期待したのに、悪が来たのだ(26)。
ヨブの心は少しも休みがないだけではない。はらわたが煮えかえる日々だったのだ。もう外に出ることもできない。うちに閉じこもり、うめくのみだ。まるで動物のように成り下がっている。
竪琴は楽しく、暖かであったのに、いまや悲しみの音しか出さない。そのようにしか聞こえてこない。ああ、この章を何度も読み返したい。

主題 <ヨブの過去を回想する言葉>

聖書箇所  ヨブ記 29章     (2013年5月31日)

今日のみことば「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。」(2)

ヨブの過去を回想する言葉である。試練に会う前の家庭と生活の充実ぶりを思い返すことも許されるだろう。過去の幸福な日々の回想である。
ここに記されたヨブの全盛期は、なんという素晴らしいものであったろうか。ヨブにとって人生は心地よく、周囲の人々は彼の威光を受けて、ヨブを快活なものにしていたのだ。
第一に、神にある祝福を受けていたことを実感させてくれる。2-5節には、日常生活の中に神との親しい交わりがあったことがわかる。私たちの生活は、神によって支えられ、祝福されることによりのである。
第二に、ヨブの仕事や社会的な立場がしっかりと確かに与えられていたことである。ヨブは人々に一目も二目もおかれた立場だった。
第三に、弱者を顧みて、惜しみなく援助をしたのだ。15-16節には、私が盲人の目となったという。足の不自由な者の足をなったという。これほどに東方一の富める人物が、貧しい、どん底にいる人々の友となったのである。
しかし、今は、貧しく、病み、衰えている。しかし、しかしである。だからこそ、人生を深く潜るようにして浅瀬の川の流れと違い、川音を立てないが、深く深く流れる川となっているのだ。華やかではないが、それだけに深淵の豊かな人格が培われているのだ。花咲く春と違い、秋の結実を待つ果樹の時なのだ。人々が忘れているように見えるが、神はそばにいる。

主題 <本当の知恵を追求したい>

聖書箇所  ヨブ記 28章     (2013年5月30日)

今日のみことば「こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(28)

 ヨブは自分の格言を述べる。この世の人々は金銀や宝石を求めている。このために深い鉱山に分け入り、さらに深い地底に潜るのである。自分が追求したい富や成功を夢見て継続して働き続ける。やがてその取り出された金や銀の鉱石を製錬して高価な金属を取り出す。それが楽しみであり、目的となっている
 しかし、「さんごも水晶も言うに足りない。知恵を獲得するのは真珠にまさる。」(18節)というのです。珊瑚も水晶も、当時の最高の価値あるものだ。だが、神の知恵がどれほどに優れたものであるかを比較するのである。ヨブにとってもそうだが、私たちにとって人生を生きる上でのほんとうの知恵を追求するものでありたいのです。
ではその知恵を何処で探り出せるのだろうか。
「しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか。」(12節)知恵は何処にでも見いだせる。私たちの世界には知恵が満ちている。しかし、その本当の知恵は、主イエス・キリストである。この方に知恵と恵みの霊が満ちているからです。イザヤ書11;1-2
 ふつう、人間は知恵のすばらしさを知ることは少ない。時には高価であると思っていた宝物は実はただの石ころや絵画に過ぎないこともある。
ヨブは再び、三度「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。」と問うのである。知恵のすばらしさを熱心に求めることを教えたヤコブの手紙1;5に「とがめず、惜しむことなく与える神に求めよ」と。

主題 <自我の主張>

聖書箇所  ヨブ記 27章     (2013年5月29日)

今日のみことば「あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(5)

  ヨブはここで自分の主張の中心主題を述べるのである。
その第一は、自分の苦難の源は神にあることを2節で述べる。
「私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者」と言うのである。私たちは、正義がこの世界に行われていないことを見受けるが、それはまだ未完成であるからだ。必ず神は天から降りてきて、私たちの疑問にほんとうに答える用意があるのだ。詩篇の中のダビデは、詩篇27;13-14で「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」と勧めている。
第二に、自分を罪に定めようとして友人たちを義とすることはしない。
自我によってしては、自分を苦しめ続ける友人でさえ、義とすることができないのである。それはとりもなおさず、ヨブの有罪であることを承認することにつながるからである。宗教改革者のルターは、清い良心をもっていた。ウオルムスの議会で立ち、「私は常に良心とともにここに立っている。ほかにすることを知らない。神よ、助けたまえ。アーメン。」と祈ったのだ。ヨハネもまた、「心に責められることがない」(第一ヨハネ3;21/22)と語っている。
第三に、自分に敵意をもっている者たちへの神の裁きがあることを考えている。そういう人々がどんなに蓄えることができても、結局誰かを益するためにほかならないのであって、正しい人のために準備されているに過ぎないのだという。(箴言13;22)神への誠実、ここに人の救いがある。

主題 <力ある神の声を聞きたい>

聖書箇所  ヨブ記 26章     (2013年5月28日)

今日のみことば「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。」(14)

 ヨブの訴えは、人間的な知恵では、解決できないことを述べるのである。
 ビルダデへの反論の中心は、人間の力は限界があることである。そして私たちも誰かを懸命に説得しようとして言葉の限りをつくしてしまう。そのあとの寒々しさを実感することがある。
 言葉というものには、想像できない力があることを知っています。しかし、言葉には限界があることを深く自覚した上で人に関わり、人の痛みについて考えたいものです。思考が浅く、ことばが先走るということをヨブ記から考え直してみたい。確からしい言葉にしても、ただ神の道の外周を触れているに過ぎないことを思う。
 1-3節のヨブの言葉には、その率直な返答が記される。自分が深く体験してはじめて教え諭すことができる。ヤコブは多くの者が教師とならないように。教師は格別厳しい裁きを受けることとなると教えた。(ヤコブの手紙3;1) 主も「医者よ。自分で自分をいやせ」(ルカ4;23)と教えたのも、自分でできないことを人に教えていなかったか。
 ヨブは、自然の周辺の出来事に満足しないで、神から答えを聞きたいのである。神の雷、すなわち直接的な応答を期待しているのだ。
 神は雷もあれば、静かな細いみ声をもって語られることもある。神は私たちに深い関心を持っておられる。一人一人に神は語られる。無神論者もすさまじい稲妻に、「神よ、助けて」と叫んだのは有名である。

主題 <伝統の知恵は人を救えない>

聖書箇所  ヨブ記 25章     (2013年5月27日)

今日のみことば「ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。」(5)

 ビルダデの最後の論争である。ここで三人の友人たちの主張が終わる。
2節の主張「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」は、きわめて優れた忠告である。神の存在を知っている者の言葉と思う。神の絶対的な主権が理解されているが、現実の悪の問題を解決していない。
 彼の主張はエリファズの主張をなぞっているだけのようだ。(4;17。15;14-16)
 こうした考え方が私たちの人生を苦しめてしまう。社会通念や育てられた時代の教育をそのまま信頼して生きることで、自分を規制するだけでなく、他者を規制してゆくからである。
 神への古くから言われてきた考え方では、悪の問題を解決できないとすれば、神ご自身が出ていただかなければなりません。
人間は虫けらのようだと主張されている。人間の尊厳についてこんなに言い放っていていいのだろうか。神がどれほどに愛されているかを見失ってはいけない。
 これまで主張されてきた考え方をもってしても、ヨブの思いを翻すことができない。ヨブの自我は人の考え方では決して砕くことができない。
 あるいは、私たちも自我の問題に苦しみ、悩んだとしても、決して人間的な理解の仕方では乗り越えることはできない。神によって手を触れていただく以外にないのである。

主題 <神がもっと正確に正義と悪をさばいてくれたなら>

聖書箇所 ヨブ記  24章     (2013年5月26日)

今日のみことば「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。」 (1)  

 ヨブは、なぜ神がはっきりと出てきて、黒白をつけてくださらないのだろうか。正しい者と悪人をさばく時期を定めておられるはずではないか。神を知るものたちがその日を見ないのか(1)というヨブの疑問は、私たちに共通する問いかけではないか。
 悪者が横暴に動き回っている。地境を移すとは、土地管理が十分でなかった昔の時代に、境界は石塚であった。だから容易に移動させることができた。申命記19;14などを読んでください。悪者は貧しい者を踏みつけて、羊の群れを奪い取っている。苦しみながら日々の暮らしを立てているのに、弱者の問題を平気で踏みにじる。こうした悪を神がすぐに裁いてほしいと思う。だが、神はかえってそうした悪を働く存在を繁栄させているかに思えて、ヨブは苦しむのだ。(22-23節)
 しかし、ヨブは神を信じる。彼らはしばらく繁栄しているが、まもなく正しい者への審判がなされることを伝統的な考え方から引き出している(24-25節)。こうしてヨブの苦闘を読み進むうちに、私たち自身の問題を浮き彫りにする。神を信じているが、現実の不条理に苦しむ日々において、もっと明確に神が出てくださったらいいのにと焦る。
しかし、神の時は必ずやってくる。救い主が来られた時もまた、どんなに待たされたとさえ思うが、最善の神の時であった。(ガラテヤ4;4)。
 神を知る者たちは、神の御手に信頼することを学び取る必要がある。最善な時とは、神が立ち上がられるときであるから。

主題 <一つのまっすぐな信頼を> 

聖書箇所 ヨブ記 23章      (2013年5月25日)

今日のみことば「神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。」(6)

ヨブの心がひがまずに答えた言葉に心を動かされる。この古い時代に、福音の中心、神の変らない愛、あわれみを深く受けとめていたことに驚くのである。神は、むしろ私と争うことよりも、心を留めてくださっていることを確信した信仰表明であるからだ。
 そこにおいて神は私を正しい者として扱ってくださる。つまらない存在、正しくない者、訴えられた者としてなど決して扱おうとされていないのだ。
 神の前に私たちが立つときに、はたしてこんな信仰が見られるだろうか。多くの恥ずべき存在であることを思わないで、神の慈しみを信じることである。その唯一の根拠が、救い主イエス・キリストの十字架の贖いにあることをしっかりと覚えよう。
 ヨブの、こうした福音理解に立って自己を見つめる視点を示してくれる。同じ時代と言われるアブラハムもまた、『神を信じた。神はこれを義とされた』と信じたようにである。(創世記15;6)
 神に会えるなら、御座にまで行きたい(3)。2節の通りに神こそ、ヨブにとっての真実の友となっている。地上の頼る存在を神は砕かれていくのだろうか。また人からあれこれをさばかれることなど、みじんも心を動かされないパウロのようにさえ変る(Ⅰコリント4;3-5)。
 神の心の広さを自覚しようと思う。人間の世界の狭い了見から解放されよう。神は私たちよりはるかに心の広いお方なのだ。一つの真っ直ぐな信頼を神の上に置くことを決意しよう。神は心の欲するところを行われるからである(13節)。

主題 <他者の罪をさばく心得>

聖書箇所  ヨブ記 22章     (2013年5月24日)

今日のみことば「いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。」(5)

エリファズの3回目の論告である。これまでよりも一層激しいさばきのことばが繰返される。
 まず、3度も同じ内容を言葉を換えて何の役に立つか、何の益があるかと。ヨブの歩みもまた少しの正しさを主張しているが、無駄なことだ。
 さらにヨブが犯していない罪まであれこれと取り上げるのである。(5-14)このような始末に負えない人間がいる。彼の語ることばには、正しいことが含まれている。いや、とっても大事な信仰の原理さえ述べられているのである。
 21-30節を読んでみれば、とても福音的な内容が取り上げられているのである。『さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。』(21節)このメッセージは、いつの時代、だれにでも当てはめられる。優れた福音的なことばでさえある。だから、この言葉に逆らえる人はいない。エリファズはたしかに優れた人物として評価されよう。23節にあるとおり、『あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。』は、重要な神からのことばでさえある。
 さて、ではこういう言葉をそのまま受け入れていいだろうか。最初にしっかりと理解しておかなければならないことがある。主も当時のパリサイ派の言うことを聞け。しかし、することはするなと教えられた。自己を義として、裁こうとする人間を徹底していかに言葉数や正しい意見も神の光の下で、愛の律法の下で読まないととんでもないことになる実例である。他者への関わりを深く学べる章であろう。