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2012年3月

2012年3月20日 (火)

主題 <石の枕から見た約束>

聖書箇所 創世記 28章    (2012年 3月18日)

今日のみことば「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 (15)

 イサクはヤコブを祝福されたことが、エサウの怒りをかうこととなったヤコブの身を案じて、母リベカは母の故郷パダン・アラムへ行くようにとヤコブを送り出した。
 ヤコブの計算ではこのままイサクから祝福を受け継ぎ、さらなる豊かな歩みを期待していただろう。しかし、ヤコブのエサウに対する悪賢さ、欺きは怒りを生み、結果的には住み慣れた地を離れなくてはならなくなってしまった。
 すべてはうまくいっているかに見えた。しかし、人間的なはかりごと、それも人を欺いてまで得ようとした結果は、故郷を離れ、家族を離れ、一人追われるように孤独な旅立ちをしなければならなくなってしまったのだった。
 失意の中、石で枕し休むしかなかった中、ヤコブは一つの不思議な光景を眼にした。それは一つのはしごが天の頂きに届き、神の使いが上り下りしているというものだった(12)。そして、神はヤコブに今回の旅路にあっても守り、再び、故郷の地を踏むことができるようにされること、決して見捨てられないとの約束を頂いた。ヤコブはこの地をべテル(神の家という意味)と名づけられた。このべテルは今後、ヤコブの人生において重要な地となり、いつも人生の分岐点となっていく。
 今回のことはヤコブ自身の問題によって生まれたと言えるが、しかし、そのようなヤコブに神は憐れみ深く、顧みてくださっていた。失望の中にも希望を与えられる主をあがめよう。

主題<祝福を失ったエサウ> 

聖書箇所 創世記 27章    (2012年 3月17日)

今日のみことば「エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。」(38)

 エサウは狩りをし獲物を持ち帰りイサクに貢献するも、ヘテ人の二人の女性を妻として迎えたことは、悩みの種になっていた(26:35)。母のリベカは弟ヤコブに兄エサウになりすまし、父イサクより祝福を受けるように勧める。しかし、その方法は偽りであり、正当とはとても言えない、欺きであった。結果的にイサクはエサウになりすましたヤコブを祝福された。
 何も知らないで野から帰ってきたエサウはヤコブが自分に成りすまして、父イサクから祝福を受けてしまったことを知り、自分も祝福して欲しいと懇願するが、何一つ残ってないと告げられ、エサウは声をあげて泣いた(38)。
 エサウはかつて長子の権利をヤコブに取られ、さらには今回のように自分になりすまし、父からの祝福を奪われるように取られてしまった。このことにより、エサウはヤコブに対し憎しみが生まれ、殺意を持つようになった。
 ヤコブが人を欺いて祝福を受けようとしたことも問題であるが、エサウにも長子の権利を軽んじてしまったことも問題であったと言える。問題に問題が積み重なって、殺意が生まれる事態になった。それは、今日に現代においても人間関係のもつれ、問題が積み重なって、起こってくる憎しみからの殺人事件を良く見聞きするのと同じものがあることを感じさせられる。
 そこで、何が重要なのかを見失い、あるいは取り違えてしまったことが悲劇をもたらしてしまうことがあることを思わされる。確認したいことは神から与えられるものの価値を再確認しなくてはならない。

主題 <主の祝福を基として>

聖書箇所 創世記 26章    (2012年 3月16日)

今日のみことば「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」(12)

 イサクはかつてアブラハムも滞在したゲラルの地に留まるように命じられた。このゲラルの地を治めるアビメレク王の前にアブラハムは自分の身を守るため、妻サラを妹と偽った失敗をしたが、イサクも同様に、妻リベカを妹と偽った。繰り返される失敗にあきれる思いを持つかもしれない。しかし、これが人間の弱さであり、罪深さであることを明らかにしていると言える。何度も同じ様に繰り返される愚かしさ。でも、再三の失敗の中にも、悔い改めの機会が備えられていることは恵みである。信仰は、繰り返してしまう失敗の中にもその経験が成長させてくれるというのも事実である。神は、イサクの失敗にも関わらず、祝福されていく(12)。
 しばらくして、井戸のことでゲラルの人々としばしば争いが起こるようになった。イサクは争いを避けて移動し続け、レホボテへと導かれ、さらなる祝福を頂くようになった。力が増していくイサクに脅威を感じたアビメレクはイサクと平和協定を結ぼうとしてイサクのもとへやって来た。イサクはこの申し出を受け入れ契約する。ゲラルを負われるようにして出て着たにも関わらず、イサクは豊かに祝福を受けてきた証拠であった。
 イサクもかつての父アブラハムと同じような失敗をくり返しながら、しかし、本当に祝福を与えて下さるのは、人によるのではなく、力によるのでもなく、ただ、神のみが祝福を与えて下さるということを一つ一つの事件が起こる度に、学び教えられ導かれてきたと言えよう。  私たちも主への信頼、そして、祝福の基を主への信仰の上に、与えられていくということを確信して歩む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <長子の権利> 

聖書箇所 創世記 25章    (2012年 3月15日)

今日のみことば「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」(34)

 アブラハムは全財産をイサクに与え、175歳で地上の生涯を終え、妻サラが葬られたマクペラのほら穴に葬られた。そして、イサクがアブラハムに与えられた約束の継承者として歴史が刻まれていく。
 イサクとリベカのうちにまだ子供が与えられないでいました。かつて父アブラハムが経験したかのようなことをイサクも経験する。しかし、イサクはリベカのせいにするのではなく、むしろリベカを思い、自分のことのように主に祈り嘆願し続けた。祈り続けて20年の歳月が流れた時、エサウとヤコブの双子が与えられたのだった。
 この二人は、兄弟でありながら、その性格の違いがはっきり見られるほどの個性の違いが見られた。エサウは巧みな猟師となり、ヤコブは天幕に住む人となった。
 ある時、エサウが狩りから帰ってきたが、その疲れと飢えから、ヤコブが煮ていたレンズ豆の煮物と引き換えに、長子の権利を交換してしまうということが起こる。たかが食べ物で、相続権、家長となる長子の権利を引き換えてしまうエサウもエサウだが、このことを言い迫るヤコブの悪賢さも問題であった。このことは、兄弟に今後大きな亀裂を生むこととなる。
 注目したいことは長子の権利を軽蔑したエサウである。エサウは「それが何になろうか」と言って、神の祝福を受け継いでいく恵みを軽んじてしまいました。今は特段何も変わりがないように見えて、しかし、神の祝福を受け継ぐということがとても重要であることが分かりませんでした。今日、信仰を継承していくということはこの恵みを受け継ぐという意味で重要なことであることを教えてくれています。

主題 <このことは主から出たことですから>

聖書箇所 創世記 24章    (2012年 3月14日)

今日のみことば「するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」(50)

 アブラハムも年を重ね老人となり、いよいよ跡継ぎのイサクへと移っていく。アブラハムはイサクのために結婚相手を探しに、アブラハムの故郷の地へしもべを派遣した。
 この途方もない人々から結婚相手を探し出すということは並みの事ではないことがしもべの祈りから伺える(12~14)。しかし、このしもべの祈りがすぐさまイサクの結婚相手となるリベカを見出すこととなった。しもべは、主の鮮やかなまでの導きの確かさに確信し、主を礼拝している(26)。
 sらに、しもべはリベカの家族のもとへと出向き、事の次第を伝え、イサクとの結婚の承諾して頂くために説明していく。本来なら、会ったこともない相手であるが、しかし、話の中でアブラハムの兄弟ナホルの孫娘であるということも分かり、不思議な出会いに導かれていることが証しされていく。そして、リベカの父ベトエルと兄ラバンはしもべの話と申し出を受け入れ「このことは主から出たことですから」(50)と言い、神の導きを受け入れていく姿勢があったことが分かる。リベカ本人も「はい。まいります。」(58)と答え、イサクのもとへと行くことを決断している。
 いずれも不思議なまでの導きの中で、速やかに事が運んでいっている。このようなことは稀のようなことに思われるが、しかし、主のみこころであるならば、それは不思議なまでに迅速に事が動くことがある例の一つと言える。何よりも、このよな一連の導きに際し、再三、主をあがめ、礼拝をささげているしもべの姿にその信仰の導きとは何かを教えてくれているように思わされるのである。

主題 <アブラハムの最初の取得した土地>

聖書箇所 創世記 23章    (2012年 3月13日)

今日のみことば「アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。」(16)

 アブラハムと共に長年連れ添った妻サラが127歳の地上の生涯を終えて、ヘブロンで死んだ。アブラハムはサラのために「嘆き、泣いた。」(2)。最愛の妻を亡くしたアブラハムにとって悲しみは大きかったが、妻の葬るために、最大限のことをしようとする。
 アブラハムはその土地の人ヘテ人に妻サラを葬るための土地を求め、エフロンの所有するマクペラのほら穴を紹介される。エフロンはアブラハムにそのほら穴のある土地を銀400シュケルの値段で取引を申し出た。銀400シュケルは法外な値段だったと言える。しかし、アブラハムは言い値通りに支払いをし、妻サラを葬った。
 神さまはかつて約束の地カナンを与えられると約束されていた。結果的に、この土地がアブラハムがカナン地域に初めて所有した土地となる。その土地は、カナン地域の中のわずかのわずかで、墓として埋葬するための土地であった。それも法外な値段での取引で所有するというものだった。
 この行動は、最愛の妻のために最大限できることとしてのアブラハムの行動であると共に、神さまがやがて約束の地カナンを与えて下さるというための第一歩の所有地として支払ったものとしては決して惜しむお金ではないというアブラハムの心境がそこにあったと思われる。
 神さまの約束を信じ歩むことに、財産や労力を惜しむことはないようにと教えてくれているのではないだろうか。主のために最大限ささげ仕えていくという歩みを今日も一歩前進させて頂きたいと思います。

主題 <試練の中で主に従う信仰>

聖書箇所 創世記 22章   (2012年 3月 12日)

今日のみことば「アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。」(8)

 アブラハムの人生の中で人生最大の試練が書かれている。それは念願の子孫として与えられた一人息子のイサクを全焼のいけにえとしてささげよというものでした(2)。
 アブラハムにとって理解に苦しんだ命令であったと思うし、今日の私たちも同じ立場にたったら悩むことであろうと思う。理不尽に思えることには、かつてソドムとゴモラをさばこうとされた時でさえ、アブラハム執拗なまでにとりなしをしたことがあった。今回も、アブラハムは主に訴えかけても良かったように思われるが、しかし、アブラハムはイサクを連れてモリヤの地を目指した。
 道中、イサクは全焼のいけにえとしてささげる羊はどこにあるのかと父アブラハムに問う。アブラハムは、「神ご自身が備えてくださるのだ。」と答えている(8)。主の命令はイサクをささげることであることを知っていたアブラハムにとって苦しい返答であったように思う。しかし、このことばが、実際に主の備えられた羊を見出すに至っている(13)。
 新改訳聖書の8節の脚注に「備えて」は直訳では「見つける」ということばであることが記されている。言い換えれば、主の備えを、主のなされる御業、主の御心を見出すというニュアンスがあるということができる。つまり、アブラハムはイサクに苦し紛れに言った言葉と言うよりも、むしろ、理解に苦しむ試練の中にも、主の働きと御心を見出すことが出来るはずであるという信仰をもって言ったことばであったと取ることが出来るのです。私たちも試練の中で神の御心を見出すことが出来るように祈りましょう。

主題 <神の背後にある御手>

聖書箇所 創世記 21章    (2012年 3月11日)

今日のみことば「「そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。」 (27)

21章にて、アブラハムに神の約束の通りに、待望のイサクが与えられた。この時、百歳を迎えていたが、神のなされることに不可能はなく、現実のものとなった。
 しかし、ここで一つの問題が出てくる。それは、先に女奴隷ハガルを通して与えられたイシュマエルについてであった。このことはアブラハムの悩みとなった(11)。悩みの中で、出した結論は、ハガルとイシュマエルを追放することとした。一見、冷たい扱いと思えるが、「はしための子も、わたしの国民としよう。」(13)との主の約束を基に送り出すこととしている。確かに、荒野をさまようこととなったハガル、イシュマエル親子に神は顧みられ、定住地と井戸を与えられたのだった。
 さらに、21章後半ではアビメレク王が再び出てくる。アブラハムはゲラル地域にあって豊かになり、アビメレク王は平和協定を結ぶ必要を覚えて出てきた。かつて、自分の身分を偽ってゲラルの地に入ったアブラハムは、アビメレク王に並ぶほどの影響力を持つほどに力を増していたということになる。確かに、主がアブラハムを祝福されてきた結果と言えよう。
 イシュマエルのこと、アビメレク王のことについて、それぞれアブラハムにといって重大な課題であったと言える。しかし、神は、それらのことをご存知で、一つ一つ最善に導かれていく。ここに神の見えざる御手が働かれていたことを認めざるを得ない。
 神は今も働かれており、最善を導いてくださるお方であることを覚えたいと思います。 

主題<繰り返される失敗> 

聖書箇所 創世記 20章    (2012年 3月10日)

今日のみことば「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。」(17)
 ソドムとゴモラの出来事の後、アブラハムはゲラルの地に滞在した。そこでアブラハムはエジプトにいた時と同じように妻サラを妹と偽った。かつて身の安全のための一策を計じた時と同じことをくり返し行ってしまった。このことはエジプトにいた時と同じように、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れることとなった。
 しかし、今回はかつてのエジプトのパロを痛めつけるということではなく、神は直接アビメレクに夢の中で語られた。アブラハムにサラが妻であることを問い正し、真実を知ったアビメレクはその非を償いを徹底的にしている(14~16)。アビメレクは権力者でありながらも、決して、高慢に私利私欲に生きた王ではなかったようである。それ故か、神は被害をもたらされるのではなく、真実を知らせることで止められたのかもしれない。
 いずれにしてもアブラハムはゲラルの地でも、身の保身から神に信頼することが出来ずに同じ失敗を繰り返してしまったということが明らかにされている。アブラハムは知らない異国の地にあって、人におもねる弱さがあったと言える。人間の弱さはなかなか変わらないという面がることを示していると言える。遅れながらもアブラハムは神の前に悔い改めて祈った(17)。
 しかし、驚くべきことは、神はアブラハムの度重なる失敗にも関わらず、神は介入され、導かれようとされている。アブラハムとの契約の故に、そのあわれみに満ちた計らい、熱心さに驚かされる。同じ様な失敗をくり返しながらも、決して見捨てないと言われる神に、私たちは改めて信頼する者ではなくてはならないことを教えてくれている。

主題 <振り返らずに歩む信仰>

聖書箇所 創世記 19章    (2012年 3月 9日)

今日のみことば「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(26)

 アブラハムのとりなしの祈りがあったが、ソドムとゴモラへのさばきは現実のものとなる。
 ソドムの門のところに座っていたロトは二人の御使いを見るなりひれ伏して拝み、自分の家に泊まるように願い求めた。このことを見た町の者たちはロトの家に押しかけ、「彼らをよく知りたい。」(5)とやってきた。これは単に好奇心でやってきたというよりは、性的な関心から詰めかけてきたと理解できる。英語で「ソドミー」(男色)という言葉はこのことが由来とされている程である。ソドムは性的な混乱、暴力に満ちていた町であったと言える。ロト家族は御使いたちを守ろうとして、町の人々からの暴力にさらされ危機にさらされてしまう。しかし、この御使いたちによって、町を脱出するように促され、ロト一家はツォアルへ逃れていく。
 そして、いよいよソドムとゴモラの町に硫黄の火が下り、一瞬のうちに町は滅び失せてしまった。この時、ロトの後ろにいたロトの妻は振り返ったので、塩の柱になってしまった。これまで、長く住んでいた町であったということもあって後ろ髪が引かれるものがあったと思われる。ロト自身も町を出るように言われた時もためらっている(16)。でも、主に導かれて決断したならば、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進んでいくこと、この時に信仰が本当に必要であることを思わされる。
 パウロは「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)と言っている。神を信じ歩む者は今の暮らし向きに目を留めるのではなく、神の栄冠に目を留めて歩む者とならせて頂きたいと思います。