« 主題 <世の光、いのちの光>  | メイン | 主題 <わたしは、良い牧者です>  »

2011年9月 1日 (木)

主題 <神の栄光のために>

聖書箇所 ヨハネの福音書 9章   (2011年8月13日)
主題 <神の栄光のために>
今日のみことば「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(3)

 イエスと弟子たちは生まれつきの盲人と出会ったことにより、一つの質問が出てきます。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか、この人ですか。その両親ですか。」(2)。障害をもって生まれてきた理由をだれかの罪によるという考え方は、現代の私たちも同様に考える風潮があることを思い、因果応報的考え方が非常に根強いものであることを感じさせられます。誰かに責任を転嫁していくという考え方は非常に悲観的とも言えます。
 イエスは「「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(3)と言われました。この生まれつきの盲人に関して言えば、「神のわざが現れるため」という神の目的、みわざが明らかにされるためであると言われました。イエスとの出会いにより神のわざが現されるという救いのご計画があったことを示されています。
 生まれつきの盲人はイエスの言われる通りに、シロアムの池へ行き目を洗うことによって、目が見えるようになりました(7)。イエスのことばに従って行ったこの盲人はすっかり見えるようになりました。明らかにイエスの奇蹟による癒しを経験したのでした。
 イエスと出会い、イエスのことばに従って行った行為は盲人の目が開かれるということだけでなく、このことを見た人々は非常に驚き、騒動になります。この目が開かれた盲人にしてみれば、人々の騒動の的にされ、困惑していきますが、しかし、これらの経験により、より一層、イエスを救い主と信じるに至りました(36~38)。
 生まれつき盲人として生まれた彼の人生は不運とされるようなレッテルを貼るような見方がありますが、むしろイエスとの出会いにより一変し、より確かな生涯を見出すことになったことは神のあわれみとみわざのほかにはないことを思わされます。今日も主は働かれ、みわざを現されようと導かれるお方であることを覚えたいと思います。今日の絶望的、悲観的な風潮から解放され、神のみわざに期待する者とならせて頂きたいと思います。