主題 <心の割礼>
聖書箇所 ローマ人への手紙 2章 (2011年9月24日)
今日のみことば「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(29)
ユダヤ人たちは、自分たちが選びの民であり律法が与えられていることを自負していました。そのため、律法を持たない異邦人をさげすみ、自分たちが優れたものであると考えていました(19-20)。
しかし、律法を与えられ、選びの民との自負していた彼らユダヤ人こそが律法に違反した歩みをしてきたことをパウロは指摘しました(21-23)。
そのような指摘に対してユダヤ人たちは「私たちには割礼がある。」と主張するであろうことを指摘し、この割礼のその本来の意味に触れて語っていきます。それは、割礼をほどこしていてもユダヤ人が律法に背いているなら、その割礼は価値がなく、無割礼に等しいこと。外見的な割礼を受けている、受けていないかが重要ではなく、神に選ばれた者としてふさわしく、律法に従って生きているかが問われるのであり、その律法に従って歩んでいることの証しとして割礼があることをパウロは主張しました。
それ故に、割礼を受けていなくても、福音を信じる信仰によって、キリストにあって救われるのであり、割礼をほどこしてなくては救われないというような行いを強制することは本来の律法の働きでもなく、神の救いの恵みを曲げてしまうことであることを今日の私たちも改めて注意しなくてはなりません。
パウロは形式的な外見上の割礼ではなく、「御霊による、心の割礼」(29)こそが重要であることを教えられ、また、これは神からの賜物として与えられていくことを教えられました。
今日、私たちは福音のみことばを聞き、キリストを救い主と告白する信仰によって、神の恵みによって救われていること、この救いの恵みは自らの行いによるのではなく、神からの賜物として与えられていることを覚え、主に感謝する一日を歩みだしていきたいと思います。