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2011年11月 3日 (木)

主題 <罪を示されて> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 7章  (2011年9月29日)

今日のみことば「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(24~25)

7節に「律法は罪なのでしょうか。」との問いかけがある。ユダヤ人たちは、律法を与えられていることを誇り、律法を守り行うことによって神の義とされると考えていた。しかし、実際には誰一人として律法を守り行うことはできず、かえって罪の自覚にさいなまれていくばかりであったことに対して、もう律法は無意味、必要としないのかという問いかけを意識していた。
パウロは、律法がなければ人は罪が何であるかを自覚することができないことを示された(7~11)。律法は罪を自覚させる役割を担っていることに触れて、律法自体が無意味なものになることはないことを教えられました。
そして、さらにパウロは律法を「霊的なもの」(14)であると言い、律法を通して、自らの内面を、罪の現実に深く気づかせてくれていることを証ししていく。14~17節の告白と18~20節の告白はパウロ自身が律法を通して示されてきた真実な告白である。そして、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(14)、「私のうちに善が住んでいないのを知っています。」(18)、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(24)とパウロ自身の告白は、自らの罪深さを知るということで、律法により自らを深く知るように導かれた証しとも言えよう。誰か人に言ってもらうことも有益であるが、やはりみことばを通してはじめて本当の意味で自らを深く顧みることができるのではないだろうか。
パウロは律法により罪深い自分を自覚されていきます。しかし、同時に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(25)と告白し、主イエス・キリストに感謝をささげました。本当にみじめな人間と言う人を確かに救い出してくださるお方は主イエス・キリスト以外におられないことを再確認するように告白し賛美しました。
私たちも、自らを顧みる時、本当に愚かさ、欠けだらけの者であることを思わされるが、そのような者に主イエスは臨み、招いてくださっていることに感謝しよう。