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2011年12月24日 (土)

主題 <御子キリストのなされた御業を覚えて>

聖書箇所 へブル人への手紙 9章(2011年12月27日)

今日のみことば「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(26)

 1~10節では、かつての幕屋における礼拝、大祭司の務めに関して記されている。7節は、以前は、神のご臨在の前に近づくことができるのは、一年に一回、一人の人に限られていたことを示している。そこで、罪の赦しのために神が定められた贖罪のための儀式がとり行われたのであるがを完全なものではなかった(9)。
 しかし今は、神はキリストの十字架によって新しい秩序を立てて、私たちの罪を赦し、良心をきよめる道を開いて下さった。旧約の時代にあがないのために神が命じられた聖なる儀式が指し示していた永遠のあがないを、キリストは、ご自身の身をもって実現されたのである (12)。
旧約の場合と新約の場合との間に共通なのは、いけにえ、死、そして血とその血によるきよめが契約の中心にあるということである。しかし、人々は、そこにも示されていた神の聖さを知り、罪を悔い改め、また神のあわれみと愛に頼ることができたが、神の民の多くがすべてを形式的に厳格に律法を守ることによる自己義認に変えてしまっていた。しかし今、私たちは、キリストの十字架の血によるきよめとあがないによって、またキリストの恵みにより私たちに渡された永遠の資産(15)によって生きることができる。この違いと恵みを改めて覚えたい。
旧約時代の儀式的な律法は、さまざまな細かい規定から成っていた。それらは、一つの、より大きな真理を示していた。それを直接実現させることはできなかった。キリストだけが至聖所つまり天そのものに入られて(24)、人間の罪のためのただの一度のいけにえとしてご自身をささげることによって(26)、身をもってその真理を実現することがおできになったお方である。
 そして、天におられる主は再び来られるお方であり(28)、私たちの救いのために来られる方である。かつて、主の降誕を待ち望んだ民がいたように、今日、私たちもこの主を待ち望む者とならせて頂きたいと思います。