主題 <アブラハムのとりなしの祈り>
聖書箇所 創世記 18章 (2012年 3月 8日)
今日のみことば「彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」」(32)
18~19章にはソドムとゴモラへの神のさばき、ロト家族に焦点が向けられている。今日は、特に18章22節以降にあるアブラハムのとりなしの祈りについて考えたいと思う。
アブラハムのところに立ち寄られた神の人たちはソドムとゴモラへさばきを下すために下されていったが、アブラハムは「まだ主の前に立っていた。」(22)とある。アブラハムは少数の正しい者がいるのに、町全体を悪として滅ぼされるのかと主に問われるために、主の前から離れなかった。そして、アブラハムは主と問答するように、ソドムとゴモラへのさばきについて、正しい者たちが50人、45人、40人、30人、20人、10人と執拗なまでに主にとりなしていく姿が記されている。ソドムとゴモラの町にはロト家族がいたこともあって、アブラハムはさばきを考え直してもらいたいと願い求めていくが、実際のところ、ロトとその妻、そして二人の娘以外に正しい者を見つけることができず滅ぼされていくことになる。そして、ロト家族も背後にこのようなアブラハムのとりなしの祈りがあったことは知らない。
今日の箇所で覚えたいことは、まず知られないところにあってとりなしの祈りがささげられていることは重要なことであるということを覚えたい。実は、今日、あなたのためにとりなし祈ってくださっている人があるかもしれないし、あなたは誰かのためにとりなし祈ることができるということを覚えたい。そして、神はわずが少数という信仰者であっても、そこに存在しているならば顧みて下さるあわれみ深いお方がおられることを覚え、失望せずに祈る者とならせて頂きたいと思います。