主題 <神の介入>
聖書箇所 創世記 12章 (2012年 3月 2日)
今日のみことば「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(17)
12章からアブラム(アブラハム)の生涯について記されている。1~3節のアブラハム契約はこれより以降、アブラハムのみならず、イスラエル民族にとって神からの祝福の基いとなっている。
アブラムは「わたしの示す地へ行きなさい。」(1)との命令をすぐに受け入れて新たな旅立ちをしました。この時、75歳であったと(4)記されている。アブラハムの一生は175歳であった(25:7)とあることから、人生の後半戦に入るという時にアブラハムは今までの住み慣れた故郷を離れて出て行った。先が見えている旅ではなく、不安、恐れもあったであろう。しかし、主の命令に従って出ていくならば、祝福しようという約束を信じて決断して出ていくことができたのだろう。
旅立ったアブラムだったが、エジプトの地に入った時、その地は飢饉で、まず最初の試練を経験する。アブラムは妻サライの美しさのゆえに、サライを奪うためにエジプト人に殺されないかと恐れ、妻サライを妹と偽るようにした。結果、サライはエジプトの王パロに召しいられ、アブラムはパロから財産をも与えられるほどになった。しかし、このアブラムの策に神は介入される。神はパロの王家に災害をもたらされた。
アブラムは一策を立てうまくいったと思っていたかもしれない。しかし、このアブラムの神の御手、神による祝福を忘れたかのような行動に介入されたのである。再び、エジプトを離れ、旅立つように導かれた。
私たちもアブラムのような弱さがあるのではないだろうか。神の御手に導かれていくことを第一に求める者でありたいと願います。