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2012年7月

2012年7月 2日 (月)

主題 <祭司職の任命>

聖書箇所 レビ記  8章     (2012年 5月30日)

今日のみことば「それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。」(6)
 8~10章には、祭司職に関する規定が書かれている。祭司は世襲制でアロンの子らが務めた(出エジプト29:9)。祭司は、神に仕える者として、特に聖別される必要があった。ここには祭司として任職されるに当たっての、聖別の儀式について書かれている。
 まず、アロンとアロンの子たちと会衆が招集された。会衆は、祭司の任職式の証人であった(2~4)。
 モーセは、アロンとその子たちを水で洗った(6)。祭司は、装束を着ける前に体を水できよめなければならなかった(出エジプト29:4)。アロンが身に着けたものは、長服、飾り帯、青服、エポデ、胸当て、ウリム、トンミムであった。頭にはかぶり物をかぶらせた(6~9)。
次に、幕屋の中にあるすべてのものは、油を注がれて聖別された。アロンは、頭に油を注がれることによって聖別された。アロンの子らは、やはり装束を身に着けた(10~13)。
 任職式に使われたささげ物は、罪のためのいけにえ(14~17)、全焼のいけにえ(18~21)、任職のいけにえ(22~29)である。任職のいけにえの特徴は、雄羊の血が祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られ、血の残りが祭壇の回りに注ぎかけられたことにある(23、24)。それには穀物のささげ物が添えられた。油と祭壇の血によって、アロンとその子ら、また彼らの装束も聖別された(30)。31~32節は、任職の食事の規定である。この儀式全体が、祭司の「贖い」のためであり、祭司の任職には7日間が必要とされた(33~35)。
 神と人との前に立つ祭司として厳格なまでに定められたこれらの規定は、その働きの重要性を意味している。今日の私たちも主の前に、この時代に遣わされた者として主に整えて頂こう。

主題 <共に食するいけにえ>

聖書箇所 レビ記  7章     (2012年 5月29日)

今日のみことば「和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。」(15)

 1~10節は、罪過のためのいけにえについて教えられている。このいけにえの脂肪、肉の取り扱いは(2~5)、「罪のためのいけにえ」と同じである(7)。また、「全焼のいけにえ」の皮、料理した「穀物のささげ物」の一部も、祭司の家の所有となった(8~10)。
 11~38節は、「和解のいけにえ」についてである。
 「感謝のいけにえ」である場合には(12~15)、「和解のいけにえ」の家畜のほかに、油を混ぜた種を入れない輪型のパンとせんべい(薄焼きのパン)などを添えてささげなければならず、またささげた人は、肉をその日のうちに食べなければならなかった。「きよい者はだれでもそれを食べることができる。」(19)とも規定されているので、ささげた人だけでなく、他の人も食べることができ、喜びを共にしたようである(申命記12:11~28)。
 しかし、「和解のいけにえ」が「誓願」のため、あるいは「進んでささげるささげ物」としてささげられる場合(16)、その肉は、三日以上残してはならなかった(16~18)。この理由は、「和解のいけにえ」の意味が、「神との交わり」を持つことであるため、三日以上残すことは「神との交わり」を軽視することになったからであると考えられる。「和解のいけにえ」の肉は、それが「汚れ」に触れたとき、また人が汚れているとき、食べてはならなかった(19~21)。「その民から断ち切られる」(20~21)ことのないためであった。
 ささげられたいけにえを共に食するという事の中に、分かち合うという恵みを共にするということであり、今日に私たちの交わりの土台であるということを改めて教えられます。

主題 <絶えず、ささげられるいけにえ>

聖書箇所 レビ記  6章     (2012年 5月28日)

今日のみことば「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。」(9)

1~7節には「罪過のためのいけにえ」について続けて教えられているが、特に、隣人から預かった物等に対する不正ついて書かれている。他人に損害を被らせた場合、被害者に損害総額に五分の一を加えて支払わなければならず、聖所で定められた相当額の雄羊を祭司のところに持って行った。これは、犯罪の被害者として、被害当事者の人間だけでなく、主なる神の前に罪を犯したということが意識されているため、神の前に犠牲をささげていく必要があるということを明確に示している。悔い改めていくということは、神の御前にあってなされるべきことであることを示していると言えよう。
 8~30節では、再び幾つかのささげ物について細則が語られている。その中でも、全焼のいけにえ(9-13)は、祭司が、これを一晩中朝まで、祭壇の上にあるようにすること(9)。そして、朝ごとに「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえ」をささげ、祭壇の上から、火を絶やしてはならないこと(13)が教えられている。「全焼のいけにえ」は神の前における全き献身を意味し、「和解のいけにえ」は神と人間との交わりの回復を意味し、この献身と和解のためのいけにえが、絶えず、ささげられていかなければならないことが教えられている。今日の私たちも、一日を始める朝ごとに、神の前に献身と和解を確認していくことの重要性を覚えなくてはならない。そのためにも、主のみえしえなる聖書のみことばに良く聞く者とならせて頂きたいと思います。