主題 <力ある神の声を聞きたい>
聖書箇所 ヨブ記 26章 (2013年5月28日)
今日のみことば「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。」(14)
ヨブの訴えは、人間的な知恵では、解決できないことを述べるのである。
ビルダデへの反論の中心は、人間の力は限界があることである。そして私たちも誰かを懸命に説得しようとして言葉の限りをつくしてしまう。そのあとの寒々しさを実感することがある。
言葉というものには、想像できない力があることを知っています。しかし、言葉には限界があることを深く自覚した上で人に関わり、人の痛みについて考えたいものです。思考が浅く、ことばが先走るということをヨブ記から考え直してみたい。確からしい言葉にしても、ただ神の道の外周を触れているに過ぎないことを思う。
1-3節のヨブの言葉には、その率直な返答が記される。自分が深く体験してはじめて教え諭すことができる。ヤコブは多くの者が教師とならないように。教師は格別厳しい裁きを受けることとなると教えた。(ヤコブの手紙3;1) 主も「医者よ。自分で自分をいやせ」(ルカ4;23)と教えたのも、自分でできないことを人に教えていなかったか。
ヨブは、自然の周辺の出来事に満足しないで、神から答えを聞きたいのである。神の雷、すなわち直接的な応答を期待しているのだ。
神は雷もあれば、静かな細いみ声をもって語られることもある。神は私たちに深い関心を持っておられる。一人一人に神は語られる。無神論者もすさまじい稲妻に、「神よ、助けて」と叫んだのは有名である。