主題 <主への恐れ>
聖書箇所 歴代誌第一 13章 (2013年2月 7日)
今日のみことば「その日ダビデは神を恐れて言った。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか。」(12)
13章の内容は、サムエル記第二、6章にもある。サムエル記では、契約の箱の移動の決定も、ダビデ一人によるという印象を受ける。しかし、ダビデは民のリーダーたちと共に箱の移動を決定し、また民全体を集合させることで、ダビデ個人の事業ではなく神の民全体の働きとして進めていることがわかる(1)。「エジプトのシホルからレボ・ハマテに至るまで」と言われている地域は(5)、当時のイスラエル人の生活圏の北から南までである。ダビデ王は全イスラエルによって王とされた。そして神の御前での民の整えの始まりに、契約の箱を自分たちのもとに取り戻すことも、全イスラエルによって始められた。彼らには大きな喜びがあった。
全イスラエルが喜びを豊かに味わっている途中で、その喜びが全く逆転してしまう、いわゆる「ウザ打ち」と呼ばれる出来事が起こった。ダビデ自身は、主が怒りを燃やされた理由が明確にわからなかったのだろう。「ダビデの心は激した」(11)。最初、彼の心は主の怒りに対して、怒りを抱くものであった。しかし、後には主への「恐れ」に変わる(12)。15章2節を見ると、箱を運ぶ方法に不適切な点があったことがわかる。ダビデは、主の怒りはウザに対するものであり、またこの動きの先頭に立っていた彼自身に対するものであることを自覚するゆえに、神の箱を運ぶことを一時中断した(12)。ウザに対する神の怒りは、民の動きに対する神のご介入でもあった。私たち信仰者も、限界を持つ人間なので、主のための熱心さのゆえの行動であっても、主の教えていることを充分に理解していない欠けがあることもあることを知らなくてはならないことを教えてくれている。