主題 <理解を欠いた忠告>
聖書箇所 ヨブ記 4章 (2013年5月 6日)
今日のみことば「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(7)
ヨブ記の中で、ヨブの最初の率直な叫びが3章に記されていた。三人の友人が7日間何も言葉にできない状況の後のことである。これまで内側に潜んでいた思いがあふれ出た。<友遠方より来たる。また楽しからずや>である。友には自分の率直な思いを吐露できるからです。
ところが、3人の中の長老格のエリファズは、ヨブのあまりの試練を見、自分の生まれた日をのろう姿に、一つの確信を持つのです。それは、神を本当に信じ、おそれている人には決してこんな苦しみは来ないだろうと確信したことによります。この言葉には、一つの人類に共通する問題が浮き彫りになる。正しい人には苦難がないとする思想です。罪があるから苦難がある。苦難への理解を欠くのである。
エリファズは黙って沈黙し、ヨブと苦難を分け合うことができない。苦難の深みに届くことができない。自分を抑えることができない。
そして苦しむヨブを責める思いに立つのである。2節に「もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。」と口を開くのです。
エリファズを始め3人の友人には、ヨブへの友情があった。しかし、彼らにはヨブが苦難の中にいる意味を理解することができなかったのである。これがこれから激しい議論を展開する原因である。
理解を欠いた者の言葉に耳を傾けることは、どんなにつらいことだろう。しかし、この忠告を読み進むうちに、同じことを自分もしていることに気付くのです。何か、過去の優れた言葉や自分の経験に照らして、人を教え、戒め、さばき、否定することをしてしまうのだ。
他者の苦難や問題に、一歩、身を引いて神から聞く知恵を求めたい。