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2013年7月 3日 (水)

主題 <私を完全にあがなう方がいる>

聖書箇所  ヨブ記 19章     (2013年5月21日)

今日のみことば「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25)
 この聖句はヨブ記の中心である。苦難の中で「私を贖う方は生きておられる」と確信している。私を贖う方は親族の立場の者である。だから神はヨブにとって家族でもあるという意味だ。苦難に遭わせることを許した神だが、そこに家族よりの深いいたわりがあることを。
13―14節にある神の取り扱いは、「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。」と嘆くが、それはヨブをして神への信頼へと道を開いてゆくための道具立てだったのだ。ヨブにとっての頼りとした家族や親族の支えを神は砕かれてしまった。
 同じ出来事ではないが、神は私たちにも同様な取り扱い方をなさるのです。人間的な頼りとするものを神は砕かれてしまう。だが、そこで親族よりも深くて強い確かな神の存在を見いだすためであるのだ。
 ヨブは新しく神を発見する。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)と。私を贖う方がいる。私に味方し、私を愛し、完全な救いをもたらし、いっさいを成し遂げてくださる。完全な状態にまで神は変えてくださるのだ。「後の日」とは、この世の終わりの時を指している。自分のちりのような者を引き上げ、喜んでくださることを言い表した。今現在の状況などに、関心を向け、心を奪われている時間はないのだ。
 試練に持つ意味は、地上の事柄に心を奪われないで、神の国への確かな希望を抱くためである。そうして心がきよめられ、人格が神に似た性格が形造られてくる。でも消して地上を無視しない。なぜなら、「ヨブの最後を見よ」、とヤコブは語っている(ヤコブの手紙5;11)。