主題 <どこまでも人の言葉だ>
聖書箇所 ヨブ記 32章 (2013年6月 3日)
今日のみことば「私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。」(18)
エリフの論述が始まる。三人の友人たちの傍らに立っていたエリフは一部始終を見て、聞いていたのである。それからヨブの独白を聞いた。
その最中に、年が若く、賢く、冷静で理知的なエリフには、これまでの論争に耐えられなかったのだ。
その理由は、第一にヨブが「それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」(1)。また神よりも自分を正しいとしていると思えたからである(2)。 一方で三人の友人が徹底してヨブには罪があるとしつつも、ヨブを降参させられないからであった。このためにエリフは怒りを燃やしたのである。彼は年が若いが、情熱があり、論理性に富み、人にへつらうことをしない。彼にまさる人を見いだすのは困難だ。
彼の論述には目を見張るものがある。三人の理を尽くした論陣を張っても、ヨブを落城させることができない。彼はその論議のかたわらで自分の言いたいことを蓄えていたのである。
しかし、結局のところ、彼もまたヨブを悔い改めさせることはできないのである。人の中に宿る能力、圧迫されるほどのエリフの霊の力が動いている。
人にはおのおの、与えられたたましいの叫びがある。私たちはそうした魂の叫びを耳を傾けて聞く用意があるだろうか。ただしどこまでも人の声なのであります。「神の声」ではない。朝日新聞の一面に「天声人語」のコラムがありますが、思いの丈を尽くして語っても、どこまでも人に過ぎないことを心に刻んでおきたい。謙虚に神を信頼して待つものでありたい。