2014年6月16日 (月)

主題 <私のとっての幸いとは?>

聖書箇所  詩篇  73章     (2013年8月25日)

今日のみことば「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」 (28)  

この詩篇の作者アサフはダビデ王に仕え、主に神殿礼拝における賛美指導を司っていた。アサフは2節で「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。」と告白し、その時代にあっての歩みに困難を覚え、揺り動かされる経験をしていたことが率直に語られている。誠実に歩む者が苦しみ、一方で悪者たちが栄えている姿を見て憂いている(3-5)。今日の私たちの時代においても、神を神とせず歩んでいる者たちの方が富を持ち、幸いにしている姿を見させられ、一体なぜ神はさばかれないのかと考えたりもする。それだけでなく、今の時代にあっても誠実に信仰にあって歩もうとしながらも、時として起こりうる困難を経験する時、一方で神を信じずとも栄えているように見える者の姿を見るとむさしさを感じることがある。まさにアサフが経験して歌ったことは今日の私たちも見させられる現実であることを思う。
 しかし、アサフは悪者たちがいつまでも栄えていることはなく、最後は滅びが待っていることを悟っている(19)。そして、アサフは最終的に人間の幸いとは何かという問いに対して、28節で「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」と告白し、神と共にあり、信頼して歩んでいく歩みこそが本当の幸いであることを確信に至っている。
あなたは神が共におられる幸いを知っておられるだろうか。全能の神が共におられることこそ、そこにある新たな導きと解決があることを期待して歩むものでありたいと思います。

主題 <ただ主ひとり> 

聖書箇所  詩篇 72篇      (2013年8月24日)

今日のみことば「ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。 」(18)
 この詩はソロモンによる祈りであり、メシヤを待望する詩篇である。「王」と「王の子」とは、第一義的には、ソロモンとその子であるが、同時に王の子としてやがておいでになる、油そそがれた者、救い主、メシヤのことも意味していると理解することができる。
ソロモンは、良い人も悪い人も含まれている国民全体を「あなたの民」と呼び、民が代々にわたって神を恐れるようにと願っている。今日の教会を見るとき、信仰者だからと言って、必ずしも皆、立派な人ばかりではない。信仰者は、自分自身の姿を冷静に見るならば、何とも言いようのない醜い罪人であることを、認めないわけにはいかない。そんな者にもかかわらず、王の王であるキリストは、クリスチャンを神の民と呼んでくださるのである。ここに神の恵みと、義に生きる人生がある。私たちはこのことを感謝し、どのような信仰者をも、神の民と見ることができる心を養っていきたい。
イスラエルでは、真の支配者は主ご自身であり、王は、真の王である神のみこころを行う、しもべにすぎない。その使命に生きるためには、王は、神の公正と、神の義を頂かなくてはならない。信仰者は、天からの聖霊の力を頂き、賜物を用いて、教会の人々とこの世の人々に主のしもべとして仕える者である。それゆえに、日ごとに、ソロモンと同じように、神の義と愛と真実を、祈り求めたいものである。
ソロモンがイスラエルで最大の王になつた時の、神様の祝福が歌われている(9-20)。彼は、全世界が真の王をほめたたえるようになることを祈っている。しかしソロモンはこのように祈ったにもかかわらず、実際には自分自身が、この世の王と同じようになってしまった。人の限界がここにある。真の王、主イエス・キリストだけがこの理想を実現してくださるのである。

主題 <若いころから主への信頼を学ぶ>

聖書箇所  詩篇 71篇      (2013年8月23日)

今日のみことば「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。 」(17)
三つの点から主への信頼について学びたいと思います。
第一に、詩人は「あなたの義によって……助け出してください」と祈っている(2)。神を信じる者は、たとえ年を取っても、神の義によって立つことができる。神の義によって私たちが助けられるとは、キリストが私たちを愛して十字架で死んでくださったことにより、私たちは義とされるということである。それは、どんなに失敗しても、キリストによって、その罪を贖われ、神の前に義とされるということであり、どんなにどん底に落ちても、その所から、主の十字架によって救い出されるということである。
第二に、彼は「年老いた時も、私を見放さないでください」と祈っている(9)。彼は5~6節で、彼が生まれた時、幼少のころから、主に抱かれて育てられたと告白している。詩人は若い頃から主を信じ、主に従い、主に仕え、神の偉大なみわざを宣べ伝えてきた伝道者、証人であつた(17)。詩人は自分の弱さ、心細さを告白しながらも、主にある幸いを喜び、なおも、主を証しする使命に心を燃やされている(18)。私たちも、どんなに年老いても、喜びと生きがいを神に求めていく者でありたい(19、20)。
第三に、詩人は常に、苦しみの中でも賛美を絶やさなかった(21-24前半、8、5)。彼は始めから終わりまで、繰り返し主をほめたたえている。それだけ深く主を知り、主の救いを覚え、主の恵みを経験していたのである。年老いて、どんな苦しみの中にあっても、彼は主を待ち望み、いよいよ切に主を賛美している。そして、主に対する証しと賛美を、次の世代、後に来るすべての者に告げ知らせるのである(18)。

主題 <いつも主をあがめて>

聖書箇所  詩篇 70篇      (2013年8月22日)
 
今日のみことば「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。 」(4)
 ダビデは困難の中で、真剣に「主よ、どうかみこころによって」(1)と祈ったのではないだろうか(40:13参照)。これが非常に重要であり、彼は「単に助けてください」と祈るよりも、より神に対する深い信頼と確信をもって祈っている。彼は、たとえどのような事態の中にあっても、神のみこころでさえあれば、その祈りは聞かれるのだという強い信仰と確信を持っていた。
ダビデは自分のいのちをねらっている敵対者が、恥を見、辱められ、卑しめられますようにと、人をのろうような祈りをしているが、これは単に復讐を祈っているのではない。神が自分の敵対者を滅ぼすことにより、自分を守ってくださるようにと祈っているのである。
ダビデは、主を慕い求める者が、主にあって「楽しみ、喜びますように」、いつも主を崇めるようにと祈っている。何と大胆な勝利に満ちた祈りだろうか。ダビデは今いのちをねらわれるような迫害の中で「どうか、主よ。助けてください」と祈っている状況で、主にあって、楽しみ、喜ぶことができた。彼はどこまでも、信仰をもつて、主を見上げていたのである。パウロは、「いつも主にあって喜びなさい」と勧めた(ピリピ4:4)。親は、子が喜ぶのを見て喜ぶ。神の救いにあずかった者が、主にあって喜び、主をほめたたえるとき、神は喜ばれ、神の栄光が現されるのである。
ダビデは、自分の弱さを告白している(5)。主に開かれる祈りは、主の前に裸になるほどの真実さが必要である。主に対する信頼に貫かれた祈りこそ、主に聞かれる祈りである。このような切なる求めが、主に聞かれる祈りの第一の要素である。私たちもこのように祈る者となろう。

主題 <みこころを求めて共に祈る>

聖書箇所  詩篇 69篇      (2013年8月21日)

今日のみことば「しかし、主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(13)

 詩篇69篇1~12節では、ダビデは疲れ果て(3)、侮辱され(7)、不当な取り扱いをされ(8)、言いようもない苦しみのただ中におかれていることを率直に主に訴えている。
 13節に「しかし、主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」と祈り、困難の中に主からの解決があることを期待して祈っています。特に、「神よ。みこころの時に。」と祈っていることに注目したい。私たちは、困難の中にあれば、ダビデのように先にあげられているような具体的な境遇にあればなおのこと、速やかなる解決を期待するのが当然に思う。しかし、「みこころの時に。」と言われているということは、何でも早く解決されれば良いというように考えるのではなく、主の解決の時があり、主の与えて下さる、応えて下さる解決こそが最善であるということを考えてなくては生まれてこない告白であることを思わされる。
 今日も私たちは主の前に祈るべき課題がある。また、中には困難の中に主の助けと導きを求めていかなくてはならない課題があるのではないだろうか。そして、いくつかの課題を祈っていくとき、神のなされる最善があることを覚え、そして、神の時があることを覚え、祈り待ち望むものでありたい。願わくは、個人の祈りのみならず、困難の時には特に兄弟姉妹において共に祈りとりなす祈りがささげられていき、主のみこころを求めて共に祈り合うことができたならば幸いである。

主題 <神の力を認めよ> 

聖書箇所  詩篇 68篇      (2013年8月20日)

今日のみことば「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。」(34)

神は、信じる者の敵を追い払ってくださるお方である(1、2)。私たちは、神の御前で、喜び、踊り、楽しみ、ほめ歌を歌うのである(3、4)
神は力強くイスラエルをエジプトの地から導き出され、約束の地に彼らを住まわせた(7-10)。主は私たちにみことばを与えてくださる(11)。
18節は、興味深い箇所であり、新約聖書に引用されている。パウロは、この箇所を、キリストが復活し、天に昇られ、教会に賜物を分け与えられたと説明している(エペソ4:8)。私たち一人一人に賜物が与えられているのである。
 主は日々、私たちのために重荷を担ってくださる。主は私たちに救いを与えてくださり、死に対する勝利をも与えてくださる(19、20)。当時の人々は、聖所に向かって行進しながら、神を賛美した。聖歌隊は先頭を進み、楽器を持つ者が後に従い、おとめたちは、その間にあってタンバリンを打ち鳴らした(24、25)。26節は恐らく、行列の指揮者のことばであり、人々に、集まって神をほめたたえることを進めている。
今あなたは、神の御力を示されることを望んでいるだろうか。それならば、28節を用いて、全能の神に祈ろう。
ダビデは、すべての人々に、神の力を認めながら、神に向かって賛美するように勧めている。なぜならば、神は、力強い御声を発せられるお方であり、聖なる所におられ、真に恐れられるべきお方だからである(32‐35)。

主題 <多くの人々が神に立ち返るように>

聖書箇所  詩篇 67篇      (2013年8月19日)

今日のみことば「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。」(3)

 詩篇67篇は神がイスラエルの民をあわれんで下さり、なお祝福してくださることへの賛美である。
 2節に「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間にしられるためです。」とあり、イスラエルの民を神が祝福してくださっていることを通して、イスラエルの民を選び導かれている神こそが真の神であることを他の国々の民が知るようになるためであると言われている。イスラエルの民が神の祝福されている様を見させられることが、まさに真の神を証することになっていることが言われている。私たちも主の祝福、恵みのうちにあることは単に自らの益だけではなく、祝福の内に歩んでいる姿がそのまま、祝福し恵み深い神を証することになることを覚えたい。
 3節と5節に「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。」と2度繰り返して同じことが歌われていることからも、この詩篇の最も告白すべき中心的内容であることが分かる。この詩篇はこの地にあって小さな一つの民族を神は選び祝福してくださり、この祝福と恵みに応え賛美をささげて主に栄光を帰している姿こそが、真の神を知らしめ、多くの国々の人々が神を恐れるようになる(7)ことを願い賛美がささげられている。
 今日の教会もこの地にあっては小さな一つの群れであるが、まさに主の目は注がれ、主の祝福のうちに保たれていることを感謝しよう。そして、今まさに神は私たちを通してさらに証され、神の御前に立ち返る人が多く起こされるように祈っていきましょう。

主題 <主のあわれみを顧み祈る>

聖書箇所  詩篇  66章     (2013年8月18日)

今日のみことば「ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」 (20)  

詩篇66篇全体を通して神がなされた御業を心からほめ歌い賛美している。
 特に6節では、「神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。」とあり、出エジプトの出来事を回顧するように語られている。神の御業ということの中に、かつて奴隷状態からの救いと約束の地へと導いてくださったということを思い起こし、限りない神の恵みをたたえている。私たちもこれまでの信仰生活の歩みを振り返り、改めて神のなさってくださった御業に思いを潜め顧みることは有益である。また、このことが私たちの救いの恵みに新たに生かされていくことにつながることを思うのである。
 16~20節において、神への賛美と祈りに対しての神からの応答について歌われている。17節に「私は、この口で神を呼ばわり、この舌であがめた。」とあり、このみことばに触れるとき、改めて私たちのくちびるはいつも神への賛美で満たされているであろうかと問われていることを思う。そして、賛美とは自分への賞賛のためではなく、神へ向けられてささげられているかが問われている。18~19節に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。」とあり、主の御前で不義は問われ、悔い改めて主に祈り求めていくことこそ重要であり、そのような祈りに主は応えてくださることを覚えたい。何よりも今日、主は罪深き者であっても悔い改め、へりくだって主に祈り求めていく者にあわれみ深く、主は聞き応えてくださるお方であることに感謝し祈る者でありたい。

主題 <大庭に住む人> 

聖書箇所  詩篇 65篇      (2013年8月17日)

今日のみことば「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。 」(4)
 
ダビデは、自分の罪深さを自覚し、その罪を正直に認める者の背きの罪を、神は赦し、その者のどんな祈りも聞いてくださるという、主の慈しみと、あわれみを、心から実感して歌っている。「幸いなことよ」、神によって選ばれ、「あなたの大庭に住むその人は」とあるが(4)、キリストを信じた者は、みな主の大庭に住むようにと、神から招かれている。「主の大庭に住む」とは、神の御支配が完全に行き渡っている世界で、主と共に歩む、恵みと慈しみに満ちた生活を表すとともに、毎週の礼拝を忠実に守る者の幸せを歌っている。このような人はたとえ、そこが地上の世界であっても、主が共にいてくださり、主との豊かな交わりがあるので、そこは聖なる宮の良いもので満ち足り、主がその祈りを聞いてくださるのである。私たちの救いの神は、全世界を造られた神であり、義と御力をもって世界を治めておられる。単に大自然だけでなく、もろもろの国民や歴史をも支配し、民の騒ぎをも静めるお方である。この世界に起こってくるすべてのことは、神の御支配の中にあることを認め、信じて、主を高らかに歌おう(5~8)。
9節以降は、主の大庭に住む人々の生活を、神がどんなに素晴らしい恵みをもって、祝福してくださるかを、地上の穀物が豊かに実る農園、また、緑したたる牧場にたとえて歌っている。パレスチナは雨が少なく、大きな川もない。森や木がほとんどない荒野が多い。しかし、主はこの荒野を豊かな憩いの地へと変えてくださる(9~13)。このような恵みと慈しみに満ちた主こそ、私たちの主であることを覚えて、主をいよいよ賛美しましょう。

主題 <自らの舌がつまづきとなってはならない>

聖書箇所  詩篇 64篇      (2013年8月16日)

今日のみことば「彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。 」(8)

ダビデに対する敵対者は、苦いことばで彼を責め(3)、偽りと毒を含んだことばで攻撃してきた。不安と恐怖で、ただ嘆くばかりの苦しみの中にあったダビデは、「私のいのちを守ってください」と主に嘆願した(4)。「全き人」とは、罪のない人ではなく、悔い改めて神に赦された者のことである。ダビデは、バテ・シェバとの姦淫、またその夫ウリヤを殺すという大きな罪を犯した。しかし、彼はそのことを心から神の御前に悔い改めて、神の赦しをいただいた。それなのに、ダビデの罪を絶対に赦してはならないと、悪く言い立てる者がいた。その非難と攻撃を受けて、ダビデは主にあわれみと守りを求めたのである。私たちも、重い罪を犯した人が、たとえ悔い改めても、赦さないで、苦いことばでののしることはないだろうか。
人をどこまでもさばき続ける者は、自分にも大きな罪があることを忘れている。ダビデは、神が立ち上がって解決してくださるという信仰の告白にいたった(5~6)。
ダビデは、彼らが自分の舌を、自らのつまずきとしたと言っている(8)。彼は、悪者たちが、神によって罪赦された自分を、絶対に赦してはならないと攻撃したので、自分の罪を赦してくださった神が、必ずことの真相を明らかになさるに違いないと確信した。
ダビデは、主に、悪事に凝っている敵から自分を守ってくれるようにと祈っているうちに、主による救いを確信することができた。そして、そのさばきによって、人々が神を恐れ、神のみわざを悟り、神のなさったことを告げ知らせるようになると信じた(9~10)。私たちも、主に身を避け、罪を赦してくださった主を、喜んで誇ろう。