2014年6月16日 (月)

主題 <荒野が聖所に> 

聖書箇所  詩篇 63篇      (2013年8月15日)

今日のみことば「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。 」(2)
 ダビデは謀反を起こした息子アブシャロムに追われ、ようやくの思いでユダの荒野に逃げて来たので、肉体的にも、霊的にも疲れ果てていた(1、2)。あの偉大なるダビデ王であっても、いのちの危険を感じて逃げ延びようとする時には、心もからだも落ち込んで、動けなくなったのである。
しかし、ダビデは、たとえそこが荒野であり、何もない渇いた砂漠であっても、主への祈りがあり、賛美があり、また神の臨在に触れるならば、そこが聖所だと信じていた(2~3)。彼が主を仰ぎ見た時、渇き切っていた心に、光があふれてきた。そして、いつの間にか、心には喜びが満ちあふれ、賛美が湧き上がってきた(416)。この詩篇は、主との交わりの詩で、主に対する賛美と喜びが、繰り返し、繰り返し、歌われている。
私たちも、忙しい生活の中で、霊的に、餓え渇き、衰え果てることがある。しかし、その荒野や砂漠のような地で、なおも主を仰ぎ見、主をほめたたえ、両手を上げて祈るならば、そこが聖所となり、「くちびるは喜びにあふれて賛美」する(4、5)。「あなたは私の助け……御翼の陰で……喜び歌います。」(7、8)彼は、ちょうど親鳥が、雛を翼で覆い守るように、主も、ご自身にすがり、助けを求める者を、守り、助け、右手で支えてくださるのだと、主にすがる自分自身に与えられる主の恵みを歌っている。彼の心の中の恐れはすつかり消え去った。
彼は、9節以降では、敵対者の滅びと破滅を確信し、神に喜ばれる信仰によって立てられた王の確かさと威厳を取り戻している。私たちもこのダビデの信仰に立って、もう一度主との交わりの豊かさを体験する者となろう。

聖書箇所  詩篇 62篇      (2013年8月14日) 主題 <神の前に静まれ>


今日のみことば「私のたましいは黙って、ただ主を待ち望む。私の救いは神から来る。」(1)

 詩篇62編1節と7節は「私のたましいは黙って、ただ主を待ち望む。」と繰り返し歌われ、神の前に静まって待ち望むダビデの姿がある。私たちもダビデのように主の前に静まり、主を待ち望む時を持つことが必要である。しかし、今日、日々の忙しさや一人の時間を持つということが難しい現実がある。けれども、ダビデのように何よりも、「ただ」と言われているだけに、まず主の前に静まることを私たちは優先することを確認したい。
 ダビデが主の前に静まり待ち望む理由は、救いと望みは神から来るからであると告白している。私たちの日常のすべてにおける助け、そして、将来における希望も神から与えられるということを知れば、私たちは何よりもまず主の前に静まるときを優先し、主を待ち望む信仰生活を第一とするのではないだろうか。
 11節に「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は神のものであることを。」とあり、「一度告げられ、二度、・・・聞く」ということは数的に合わないのではないかと思わされるが、これは一度告げられたことを二度繰りかして聞くというように、しっかりと主のことばを受け止めたという強調的な表現(ヨブ40:5参照)である。ダビデは主の前に静まり待ち望む中で、しっかりと神のみことばを受け取っていたことが分かる。
 今日、私たちも主の前に静まることを第一とし、主のみことばを待ち望む者とならせて頂きたい。

主題 <地の果てからの祈りを聞かれる主> 

聖書箇所  詩篇 61篇      (2013年8月13日)

今日のみことば「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」(2)

この詩篇の背景に、ダビデは、血を分けた自分の息子のアブシャロムに背かれ、殺されそうになり、ユダの荒野に逃げてきたと思われる。ダビデは衰え果ててしまい、苦しんだであろう(2)。
人は危機的な状況に追い込まれたとき、心が衰え、祈ることもできず、神の恵みも遠く感じられ、「地の果て」に落ち込んでしまいがちである。しかしダビデはその地の果てから、衰え果てる心を打ちたたいて、なおも主を呼び求めた。「この霊的どん底状態から引き上げてください。私はあなたに身を避けます」という必死の祈りである(2)。彼の本当の願いは「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです」であり(4)、いつも主の御前にいて、主との豊かな交わりの中に、主と共に生きたいという、切実な求めの祈りであった。私たちは苦しみや悲しみ、様々な試練に会うとき、その苦しみから助け出してくださいと祈りやすい。しかし本当に私たちが祈り求めるべきことは、自分自身のたましいが、主との交わりの中で、主と共にいることであり、また信仰と忍耐によって、その試練を乗り切っていくことではないだろうか。
ダビデは、息子の謀反という耐え難い試練に立たされ、荒野に逃げたが、その地の果てから主に叫び求め、ひたすら祈った時、主はそれを聞いてくださった。彼は心から主の御名をほめたたえ、主に誓いを果たす決意を新たにしたのである。
私たちもどのような状況にも祈りは届いているという確信をもって祈る者となりましょう。

主題 <主が共に戦われる>

聖書箇所  詩篇 60篇      (2013年8月12日)

今日のみことば「あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。」(4)

 詩篇60篇の表題に「ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに」とあり、その戦いについてはサムエル記第二8章や歴代誌第一18章に記されている。ダビデは北から攻めてくるアラム軍と戦っている時に、南からエドムが攻めてきた。この時、ヨアブが派遣されエドムを一掃したことを記念して歌われたものである。
 1節に「神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。」とあり、このダビデの告白は明らかに、イスラエルは神から見放され戦いに敗北(3)してしまったことが分かる。しかし、そのような中で神は「旗」を授けられた(5)とあり、この幻はおそらく神の臨在を示し、イスラエルの民たちが再び神の民として神を恐れ従う者として整えられ、武器などではなく神に信頼していく信仰を示していくことを神が望んでおられることを意味していたと考えられる。
 ダビデは神の助けを求めて祈りました(9-11)。神の助けなしに勝利することは出来ないことを悟ったのでした。そしてこの後、ヨアブはエドムに対して派遣され大勝利を得ました。
 一度の苦戦、敗戦を経験し、神の助けなしに戦うことのできないことを、神への信仰を回復したとき、再び勝利を得ました。
私たちも信仰の戦いによる勝利を歌われた詩篇に触れ、改めて私たちと共にあって戦われる神を覚え、神への全幅の信頼、信仰をもって歩む者とならせて頂きたいと願います。

主題 <今、この時に与えられる確信>

聖書箇所  詩篇  59章     (2013年8月11日)

今日のみことば「神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」 (17)  

詩篇59篇の表題には「ダビデを殺そうと、サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに」とあり、サムエル記第一19章11~17節には、サウル王がダビデを殺そうと使者を遣わされたが、ダビデは危機一髪のタイミングで逃れることができた出来事が記されている。この時を背景にこの詩篇が歌われているとするならば、この詩篇は絶体絶命と言えるようなわずかな時間にあって、ダビデは神に助けを求め(1-5)、敵対する者に対してのさばきを願い(10-13)、神こそがあらゆることから守ってくださるとりでである(9,16-17)と告白に至っている。それは危機的瞬間において、ダビデは現状を主に訴え、主こそが唯一の守り、とりでなるお方であると確信に至っているという非常に凝縮した神との交わりをもって確信に至っていたということになるのではないだろうか。
私たちは一時、一瞬では何もすることは出来ないと考えるかもしれない。しかし、わずかばかりの時間であってもダビデのように、全幅の信頼をもって神を求め、主のなされる御業に期待して祈り求めていくことができることを覚えたい。そして、私たちも一時、一瞬という時にこそ主に祈り求めていく信仰が問われているのではないだろうか。
また、ダビデは自らにはどうすることもできなくても、主の力に大きな期待をもっていた(11)。私たちではなく、主の御業があり、主が働いてくださり、主の最善があるということに希望をおいて歩む者でありたい。

主題 <正しくさばかれる神> 

聖書箇所  詩篇 58篇      (2013年8月10日)

今日のみことば「こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」」(11)

上に立つ者、公正なさばきを行うべく立てられている者が、不正と暴虐に生きているとき、その下にある者はどうしたらよいのだろうか。ダビデはこの世の権力をもって、人々を苦しめている者の背後で、悪者を操っているサタンの存在を鋭く感じている(1-3)。彼らは人々の前で、いかにも義人のような顔をして公義を行っているように振る舞っているが、実は不正と暴虐を欲しいままにしている(4、5)。彼らは耳をふさがれたコブラのように、人々を平気で傷つける。人間は人の忠告や警告が聞けなくなったら、耳をふさがれたコブラと同じである。このことは私たち自身にとっても重要な問題である。人の話を聞くことができるということは、何よりも大事なことである。
 ダビデは6-9節で、神に、サタンとその手下になっている悪者を、さばいて滅ぼしてくださいと祈っている。なぜなら、これは単なる人間同士の争いではなく、自分自身の内にもある、誘惑に弱い偽善的な思いとの戦いであると、知っていたからである。
 ダビデは、6-9節で、さばきの祈りをし、悪者の徹底的な滅びを祈っている。ダビデはこのように祈ることによって、正しい者、神を恐れ、信じる者は、この世のサタンの力に必ず打ち勝つという、ゆるぎない信仰に導かれていくのである(10)。まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が地におられるのである(11)。
 今日、不正、不条理に見える現実を目の当たりにする中で、正しくさばかれるお方がおられることを忘れてはならない。どのような時にも、主に信頼し、解決を求めていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <目をさませ>

書箇所  詩篇 57篇      (2013年8月 9日)

今日のみことば「私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。」(8)
 
 私たちは、目の前の現実に、絶望しか見いだせない時も、神が共にいてくださるゆえに望みをもって生きていくことができる。ダビデは、自分に追ってくる嵐のような巨大な力の前に、今にも滅ぼされようとしていながら、「神よ。私をあわれんでください……滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます」と訴えた。それは、神はすべてのことを成し遂げてくださるお方であるという、力強い確信を持っていたからである(1、2)。「仕方がない」というような、あきらめの気持ちだったのでもなく、また弱々しい望みを持っていたのでもない。
 神は、ダビデを洞穴に追いつめたサウルが、一人無防備で、その洞穴に入り込むように仕向けられた(Ⅰサムエル24:3参照)。神は、ダビデを、必ず守る主であった。もし私たちも、その御翼の陰に身を避けさえするなら、同じ主が、私たちをも守ってくださる。
 ダビデは相手の攻撃の激しさを神に訴え、自分の無力を告白し、神が崇められるようにと祈っている(4-6)。
 私たちはともすると、自分のまわりの暗いものによって心がうなだれ、滅入ってしまいがちである。しかし、ダビデはそのような中で、「目をさませ」と自らを励ましている。目をさまして主のみわざをはっきり認めることが大切である。そして、彼は最後に、主に感謝し、主をほめたたえている(7-11)。
 私たちは心の暗さが解決され、明るくなったら神を賛美しようと思いやすいが、信仰とは暗い中で光が見えなくても、必ず輝く朝が来ることを信じるところにあることを覚えたい(イザヤ50:10)。

主題 <神の御前を歩むために>

聖書箇所  詩篇 56篇      (2013年8月 8日)
 
今日のみことば「あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。 」(13)

 ダビデがこの詩篇を歌った時の背景は、表題から推察できる。彼はサウル王を恐れて、ガテの王アキシュの所に逃れていたが、ペリシテ人によって見破られてしまい、捕らえられ、痛めつけられ、一日中しいたげられていた(Iサムエル21:10-15)。
 しかしダビデは、どんな苦境の中でも、神に拠り頼む道を失うことなく「私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません」と告白している(3、4)。ダビデは、どうしてこのように主に信頼することができたのか。それは4節にあるように、どこまでもみことばに、自分の信仰の土台をしっかりと置こうとしていたからである(10、11)。私たちは、みことばをこのように信じ、受け取っているだろうか。私たちが神のみことばに信頼するとき、どんな苦境の中でも、神に信頼できるのである。
 次にダビデは、祈りによって、敵の攻撃に対して闘っている(7-9)。ダビデは絶望することなく、主が彼の放浪の苦しみを覚えていてくださり、また、彼の涙を皮袋にとっておいてくださると信じた。その時ダビデは、神が私の味方であると確信することができ、それゆえに、みことばをほめたたえることができたのである(10)。
 そして、この確信に到達した時の、ダビデの感謝の誓いも記されている(12、13)。ダビデは、救いは神からくること、救われた目的は神と共に歩むことであることを確認している。私たちも主の救いに感謝し、困難な時にも、主と共に歩む幸いを得させて頂けるように祈ろう。

主題 <あなたの重荷を主にゆだねよ>

聖書箇所  詩篇 55篇      (2013年8月 7日)

今日のみことば「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(22)

 ダビデの人生ほど波乱に満ちた人生はないのではないかと思わされる。ダビデはイスラエルに勝利をもたらした英雄であり、イスラエルの王でもありましたが、身近に多くの敵がいて苦しめられてきた人生でした。波乱に満ちた人生に疲れ、「ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。」(7)とのダビデの告白のように、私たちも人との関わり合いにあって疲れ、日常のことから、しがらみから解放されたいと願うことがあるかもしれない。確かにダビデはしばしば逃亡生活を余儀なくされ、人々の目から身を隠さなくてはならなかった。  
しかし、ダビデは単に逃げ回り、身を潜めているだけではなかった。「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」(16-17)とダビデは高らかに歌い、身を隠し、孤独にあっても、ダビデは夕、朝、真昼、いつも主の前にあって、祈りの声をあげ続けていたのである。逃避によっては、真の解決はない。困難、問題の解決はそのことを主に訴え求めていくことがなくてはならないのである。
そして、ダビデは荒野を彷徨っても、孤独にあったとしても、一つの確信が与えられていた。22節では「主はあなたのことを心配してくださる。」とあり、神はいつも共にあって、私たちの窮状をご承知で心配してくださるお方である。だから、私たちは何も思い煩うことなく、まず、主にゆだねた信仰の歩みを続けて行く者でありたい。

主題 <ダビデの確信> 

聖書箇所  詩篇 54篇      (2013年8月 6日)

今日のみことば「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(4)

ジフ人たちは、ダビデに好意を示したアヒメレクー族を、サウルが皆殺しにしたことを聞いて、ダビデを助けると大変なことになると思い、サウルを恐れて密告したのであろう(Iサムエル22:16-19,23:19-20参照)。
しかし、私たちにこのジフ人たちを非難できるだろうか。私たちも人を恐れ、保身のために、自分の利害によって動かされることがないだろうか。自分の前に神を置こうとしないとき、そのような歩みになってしまうのである(1-3)。
しかしそのような状況の中で、「あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください」とダビデは祈った(5)。自分から彼らに復讐しようとするのではなく、主にさばきを全面的にゆだねている信仰者の態度を見ることができる。そして、このダビデの、真剣かつ必死の祈りがもとになって、6節での神への礼拝がささげられている。ここにおいて、ダビデの心の中ではすでに、神の守りと、救いに対する確信が、確かなものとされているのを見ることができる(7)。だからこそ、「主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します」と、感謝のことばが口から出たのである(6)。彼の心の中から憎しみが消え、完全に恐れから平安へと変えられていることがわかる。
ダビデを取り巻く状況が、変わったわけではない。密告を受けたサウルの追っ手がやってくるのは、時間の問題であった。しかし、ダビデの心にはすでに勝利があった。「私の目が私の敵をながめるようになった」というところに、主に対する絶対的な信頼と余裕があふれ、希望の光さえ差し込み始めている。ダビデの確信に満ちた姿に倣う者とならせて頂きたい。