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2011年8月10日 (水)

主題 <わたしの血による新しい契約> 

聖書箇所 ルカの福音書 22章   (2011年8月 2日)

今日のみことば「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(20-21)

 最後の食卓を主は特別に記念されました。過ぎ越しの小羊をほふり、種なしのパンの祝いを通して主が十字架にいのちを与えられた救いの完成がなされる日と重ねられます。主は、とても優れたたとえの名人で、ひとつひとつに重要な意味付けをされたのです。聖餐を教会の歩みに重ねました。
 イスラエルがエジプトの奴隷から、殺された小羊の血が、門と柱に塗られて、エジプトは神の刑罰を受け、イスラエルは救われたのであり、自由を受け、約束の国に帰ったのである。それ以来、イスラエルにとって過ぎ越しは最も重要な記念日となったのです。
 そしてキリスト者は、罪を犯し堕落していましたが、主の十字架の犠牲によって罪の赦しと神との平和、永遠の命を信じ救われたのです。主の側からの一方的な恩寵によって、信じるだけで救われる道を開いてくださった。金曜日に十字架につき、日曜日に復活し、毎週の礼拝は、遜られた主に出会う時間です。聖餐式の時に、絶えず自覚するのは、自分自身の罪の絶望、堕落の悲しみ、その私たちの罪を引き受けて救ってくださった恵みへの感動の応答の日です。この偉大な恵みに心を開き、全身全霊で応答することこそ、ふさわしい日です。
一方で、この恵みを軽んじ、否定し、ついに主を裏切るユダは聖餐の前後に綿密な計画を立て、実行に移します。また、弟子ペテロも主を否定する罪を犯します。そのうえ弟子たちは、互いにだれが一番偉いかという論議に集中しているのです。
このような弟子たち、私の罪ゆえに、主は罪なき血潮を流し、義としてくださいました。これは新しい契約、すなわち旧約聖書の契約と異なり、和解の福音の契約が成立した瞬間でした。
主は、この晩餐でパンと杯を一緒にされたのが、何とユダだったのです。これがまさに真の聖餐であることを覚え、恵みを軽んじないようにしなくてはなりません。