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2011年8月10日 (水)

主題 <ついにその声が勝った>

聖書箇所 ルカの福音書 23章  (2011年8月 3日)

今日のみことば「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」 (23)

主の十字架の前の裁判の様子が生々しく記されている。人々の思惑、価値観、どん欲がはっきりとしてくる。主の前では自分をごまかせない。かつてシメオンがマリヤに「人々の心の思いが現れる」(2;35)と告げられたとおりです。
 ローマ総督ピラトは権力者でありながら、おどおどとしている。なぜだろうか。自己の欲望、自己の立場に執着し、決断が出来ない権力者の姿である。
 群衆の中で、「ついにその声が勝った。」とある。現代は、民主主義の時代である。民主が正しさの基準であると考えがちだ。民が多数となることが正義なのである。しかし、その<民の声>が勝ったが、それが神の声ではなく、罪の声の勝利であった。
 人々の流れに押し流されて、自分を見失っていくことに気付くことはないだろうか。そんなとき、主を十字架につけた人々の姿を思い起こそう。「みんながそうしているから」「時流に乗り遅れまい」と流される罪を思う。
  33節では「「どくろ」(カルバリ)と呼ばれている所に来ると、「そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」十字架に釘を打つ音も、流れ出る真っ赤な血も、痛々しい苦しみの表現もない。ただ<彼らが十字架のつけた>記録だけである。
 主は、十字架の上で、罪の赦しを祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)この祈りをささげるために主は人間の歴史の中に切り込まれ、人類の長い歴史はあったのである。この祈りをささげるための旧約聖書であり、新約聖書である。主が予告され、来臨し、きよい生涯があったのである。
 ここに救いがある。