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2011年9月

2011年9月 1日 (木)

主題 <世の光、いのちの光> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 8章   (2011年8月12日)
主題 <世の光、いのちの光> 
今日のみことば「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」(12)

 イエスはご自身について重大な宣言をされる。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12)。イエスご自身が世を照らす光であり、いのちの光であると言われた。
8章の前半は姦淫の現場で捕えられた女性が今にも石打ちの刑に処せられようとしている時、イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われ、それを聞いた者たちは一人一人去っていき、だれもいなくなりました。だれも罪に定める者はいなくなり、イエスはもう罪を犯してはなりませんと言ってその女性を去らせたことが記されています。この女性はどうして姦淫の罪を犯したのか。詳しくは記されていない。そこには暗い闇の部分、罪を犯した事実がありました。現代においても、罪を犯し、誰にも照らされることのない闇の部分があることを否定できないのではないでしょうか。
しかし、この姦淫の罪を犯した女性にとってイエスとの出会いはまさに救いでした。石打ちの石を投げる者はありませんでしたが、誰もが罪があるという意識を共通に持つ出来事となりました。主イエスとの出会いは罪がしめされるという痛みが伴うものです。しかし、その罪を赦すという救いが同時にイエスにあって与えられること、この恵みに感謝したいと思います。
この出来事に引き続き、イエスは語られたのです。「わたしが世の光です。・・・いのちの光を持つのです。」イエスにあって、本当の自分を照らされ、罪の悔い改めに導かれ、同時に永遠のいのちの救いを頂く恵みにあずからせてくださる。今日、私たちの光、いのちの光なるお方であるイエスの導きを頂いて歩ませて頂きたいと思います。

主題 <イエスの招きに対して> 

聖書箇所 ヨハネの福音書  7章  (2011年8月11日)

今日のみことば「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」(36~37)

 主イエスは、仮庵の祭りの終わりの日に群衆を前に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言って招かれました。仮庵の祭りの最終日には神殿の祭壇に水を注ぐ習慣があり、おそらくイエスは注がれる水を意識して、「生ける水」について話し出されたと思われる。
 主イエスの招きのことばは実に明快であった。「わたしのもとに来て・・・」、「わたしを信じる者は・・・」と言って、明らかに主イエスのもとに来て信じるように促されていました。この招きに人々の反応はさまざまであったことが記されています。
 ある者は「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」という者。おそらくモーセ、イザヤのような預言者を指して言っていたのかもしれない。
ある者は「この方はキリストだ。」という者。ある者は「まさか、キリストはガリラヤから出ない・・・ベツレヘムの村から出る。」という者。これらは、キリストの来臨を聞き待ち望んでいたことが伺えるが、今、目の前にしているイエスがキリストであるということをはっきりとした確信をもって見ていないことが伺える。それぞれの人々の見解が、憶測を呼び、さらには混乱となって分裂していきました(43)。
さらにパリサイ人たちは一切、イエスの言われることに耳を傾けるのでもなく、イエスの話されていることに群衆は惑わされ、のろわれているとまで言いました(49)。
これほどはっきりとしたイエスの招きのことばに応じていく者が少なかったことは悲しむべきことである。現代においても、主イエスは招き続けておられる。私たちはどのように主の招きに応えるべきか。それは人々の論争で終始してしまうのではなく、一人一人が主イエスの前に行き、心の奥底から満たしてくださる主に出会うことが必要なことをまず覚えたいと思います。

主題 <いのちのパン> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 6章  (2011年8月10日)

今日のみことば「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 (35)

 人々の関心は物質的な物に良く捕われることがあります。6章では5000人の給食の奇蹟が行われ、群衆はまさに奇蹟を体験する。そして、空腹は満たされ、イエスの驚くべき奇蹟的な業に注目していく。そこに、主イエスを信じる弟子は少なかったようである。
 イエスはこの地上の食物のためでなく、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(27)と勧められ、この地上のものによるいのちではなく、神が与えてくださる永遠のいのちを得るために働くように言われました。かつてのイスラエルの民は出エジプト後、荒野における旅において天からのマナ(パン)を得て、生きて行ったように、「天からのまことのパン」(32)こそが、世にいのちを与えるのだと教えられました。
 これを聞いた者たちは「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」(34)と願い求めました。イエスは「「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)と言われ、ご自身こそが天から下ってこられたいのちパンであると言われ、決して飢えることも、渇くこともないといわれたのでした。
 弟子たちのことばに「いつもそのパンを」と言っていたことに注目される。弟子たちの願っていることは今も、そしてこれからも続けてお与えくださいと願い求めたのに対して、イエスは「わたしがいのちのパンです。」と言われイエス、ご自身と共にあることが、「いつも」という願いを保障されていることが分かります。イエスご自身のもとにいのちがあり、その祝福に満たされ続けていくという約束がそこにあることを覚えたいと思います。
 51~59節では天から下ってきたパンのくだりで、キリストの十字架と贖いの出来事を示し、それは今日の聖餐式になぞられて語られていたことでありました。聖餐式を通して、一層、罪赦されいのちに移された者として生かされている恵みに感謝するものとなりましょう。

主題 <御子と御父> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 5章   (2011年8月 9日)

今日のみことば「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」(19)

 人々の関心は、イエスご自身が神と等しくして、神をご自分の父と呼んでおられたことに向けられていた(18)。このことに関して、イエスはご自分と父なる神との一体性について語られた。
 第一に、イエスご自身の行われる業は父なる神と同様の業であることを証言されました(19~20)。第二に、しイエスご自身は父から「いのちを与える権威」と「さばきの権威」が与えられていることを証言されました(21~30)。
 イエスご自身と父なる神との一体性は面等向かって見ることのできなかった父なる神をイエス・キリストを通して、明らかに見ることが許され、神の御業に直接見て触れることが許されたことに驚かされる。そればかりだけでなく、このイエスご自身がこの地上に来られた目的は御父より遣わされた主イエスを信じる者に永遠のいのちを与えられるためでした(24)。
 しかし、この主イエスが神を父と呼ぶことに懐疑心の目で見る者が実に多くいました。そして、現代においても信じることのできない人々が多いことを思わされるのです。
 今日、イエス・キリストをどのようなお方と見るかが問われます。そして、このことは私たちの救いに大きく関係していることを覚えなくてはなりません。29節「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」とあり、この箇所は単に道徳的な善悪のことだけでなく、主イエスが復活された救い主イエス、神の御子なるお方であることを信じる者を、善を行う者とさして言われ、悪を行う者はイエスを信じない者を指して言われたことばでありました。その結果は、いのちに至るのとさばきに会うという大きな分かれ道となっていることが分かります。
 今日、私たちは霊に目が開かれ、改めて主イエスを神に御子、御父から遣わされた救い主と告白する者として歩ませて頂きましょう。

主題 <イエスのことばを信じて> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 4章   (2011年8月 8日)

今日のみことば「イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(50)

 主は再び、ガリラヤのカナに入られた。カナでは婚礼の席でぶどう酒がなくなってしまったが、水を最高のぶどう酒に変えられるという最初の奇蹟を行われた所であったが、また、イエスはこの地で第二のしるし(奇蹟)を行われた。それはある王室の役人の息子をいやされるという奇蹟だった。
 ある王室の役人はカペナウムにいる息子が病気で死に瀕していた。そこで、イエスがガリラヤに来られたということを聞きつけて、イエスに息子をいやしてくださるように願い出た(47)。カペナウムからカナまでは約30キロの道を行かなければならないが、この王室の役人はイエスがカナに来ているとの話だけをたよりに出かけてきたということは本当に必死な思いでイエスを探し、息子のためにカペナウムまで来ていただきたいという思いが伝わってくる。
 しかし、イエスはこの王室の役人の求めに対して「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(48)と言われた。そして、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(50)と言われた。王室の役人はイエスを息子の所へと招き、病気をいやして頂きたいと願ってきたが、イエスはただ「あなたの息子は直っている。」とのおことばだけを与えて、見える形での奇蹟をなさらなかった。
このことは、現代に生きる私たちに何を教えてくれているのであろうか。私たちは信じていると言って何を信じているかということが問われている。信仰者と言っても、どこか証拠を求めるように奇蹟、しるしある業を見ないと信じられないという信仰になっていないだろうか。この王室の役人はイエスの言われている通りに帰宅し、息子が癒されているのを見た。ただ、イエスの言われる通り、そのおことばを信じただけであった。実は、主のことばに聞き従うことのみで十分なのである。それ以上を求める必要もなく、主は私たちの必要を知り、それに応えて下さるお方であることを改めて覚え、主のみことばに聞く信仰をさらに養うことができるように祈ろう。