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2011年9月 1日 (木)

主題 <主イエスの復活>

聖書箇所 ヨハネの福音書 20章  (2011年8月24日)

今日のみことば「イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。」 (16)

 十字架刑にて息をひきとられたイエスはアリマタヤのヨセフによって引き取られ、十字架刑の行われた近くの園にあった墓に葬られた。
 イエスが葬られて安息日が過ぎ、三日目の朝早くに、マグダラのマリヤが墓へやって来ると、墓をふさいでいた石がころがされているのを発見し、すぐに弟子たちに知らせた。イエスの復活の第一報はマグダラのマリヤであったことが記されている。そして、マリヤの知らせを聞いたペテロともう一人の弟子も墓に駆けつけ、確かにイエスの体がそこになくなっているのを確認した。
 マリヤにとって衝撃的な事実を前に、ただ涙を流すしかなかったが、そこに主イエスは現れ、マリヤに声をかけられた。マリヤは初めのうちは、話している方がイエスであるとは気付かなかった。しかし、会話を重ねていくうちに、イエスであることを知っていく。それはイエスが「マリヤ。」と声をかけられ、マリヤがイエスに対して「ラボニ(先生)」と答えられていく中で気付いていった。これまで、いつも語り合っていた言葉使い、会話を交わす中でイエスであるということが分かった。復活した主イエスはその見た目の姿でははっきりとイエスであるということが分からない容姿であったとも言え、さらには死んだ者が生き返るはずないという思いも強かった故に、復活されたイエスに気付けなかったと考えられる。今日、新約の時代に生きていない私たちはイエスの復活を信じることはさらに難しいかもしれない。しかし、目で見てということ以上に、マリヤはイエスとの会話というやり取りの中でイエスを認めていったということを考えるとき、現代を生きる私たちはイエスのみことばを聞くというところに復活を信じることができるようになるということを教えてくれているように思うのです。そして、イエスの復活を信じるようになることは人間の思い込みや知識によってなされるのではなく、やはり神の御業なのだということを今日の教会は良く覚えていかなくてはならないと思うのです。
 今日、復活されたイエスは生きておられ、今も救いに導かれるお方であることを覚え、御名をあがめて歩む者とさせて頂きたいと思います。