主題 <母がその子を養い育てるように>
聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一2章(2011年11月28日)
今日のみことば「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」(7)
偉大な使徒パウロがテサロニケに福音を宣教し、素晴らしい教会を生み出し(使徒17章)、育ててきた事実と動機と方法を語ります。
福音の事実と福音に根ざした動機と福音による方法を思い出して、牧師と信徒の強いつながり改めて再確認し、信仰の中心を見失うことないように勧めるのである。私たちは当初の信仰をしばしば見失って、周辺のことに心を奪われやすいのです。
このようにして、パウロは牧者と信徒の中に見られやすい困難を見事に克服している。多少ギクシャクした問題や関係の中から、かえって本来のキリスト教会の原点を見据えるように導き、これから語ろうとする大切なメッセージを明らかにし、それが捨てられてしまわぬようにと配慮したのです。
6節には「使徒として権威を主張することもできたのですが」と、ちゃんと自分がどういう者か明らかにする。そのような権威を使徒としての立場で押し付けずに、母がその子を養育し、自分のいのちまでも与えたいほどの愛を注いできたのです。父が自分の子に対するような教育の仕方のように、教会員を育て上げていったのです。
この働きの動機さえ神様がご存じであるという。神様の栄光のために費やされる努力、愛、涙、祈り、牧会、何という崇高なのであろうか。そして伝道と牧会と祈りが、少しも妨げとならず、祝福を分け合うのです。
パウロがテサロニケの信者たちをどんなに喜び、たえず感謝していることか(13節)。15節は「神に喜ばれず」にいる人について語る。一方、誉れともなり、喜びとなる(19、20節)ように分けるものは何だろう。13節にその答えがある。
パウロのメッセ-ジを聞いたとき、人間の言葉として聞かなかった事です。第2は、「事実どおりに神の言葉として受け入れてくれたからです。」という。なぜか。1つはパウロを受け入れたゆえです。パウロを受け入れることは神を受け入れることに通じる。2つ目は、神の使信を受け入れてゆくので、神の恵みの働きが生活の中に実を結んできているのです。人から語られているみことばが、神の言葉として受け入れられる。人の心の柔らかさ、敬虔さ、信仰深さこそ喜ばれるカギなのである。