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2011年11月27日 (日)

主題 <主の日は盗人のように来る>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一5章(2011年12月 1日)

今日のみことば「いつも喜んでいなさい。」(16)

 主が再びこの世界に来られるということを自覚するべきなのは、「いつか」という問題で、今日を生きる決定的なあり方を形造る。
 主の再臨を考えない一般の人にとって、「平和だ。安全だ。」といっているときに突如として滅びが襲いかかります。妊婦が出産近くまではごく変わりない生活ですが、陣痛が突然やってくる。しかも、再臨を考えないので、人生全体が暗やみに閉ざされ(4)、酒に紛らわせて苦しみを逃れるべく酔う(7)のです。
 私たちは、第一に再臨は絶対に確実であること、第二に突如として来るのでいつもここに望みをおいて生きられること、第三に救いに予定されていること(9)をしっかりと自分のものにしなければなりません。
 こうして、目覚めているときでも眠っているときでも、主と共に生きることになる。地上の歩みも、天にあげられし後も同じ生き方です。これが光の子供の生き方です。
 Ⅰテサロニケの手紙の最後のテキストは、1節としておろそかに出来ない教えがちりばめられ、きょうの主題を、どこを主たるみことばにしてよいのか迷ってしまうほどである。
 きょうは16節の、有名な聖句に目をとめて全体について考えて見よう。この常に喜ぶ生き方は主にあって、神様があなた(あなたがたというけれども)に直接的に望まれた歩みです。喜べという勧めはいろいろの機会に出会うけれども、「いつも」となると困ってしまう。人間的に喜べることもたくさんあるけれども、どんな時にも、と求められると、実際に立ち往生してしまう。いつも喜べるのだろうか。気分爽快な日だけでなく、ずぶぬれになって泣きながら家に飛び込む日だってあるのです。でも、この句はいつもあなたの前に立ち続けている。石碑なら、立ち去ればすむかも知れない。でも今日一日もこの句が常に、心に叩いて離れない。
 23~25節に、その『いつも』という課題にそえるための秘密が隠されているように思う。平和の神がそのことを完全にしてくださるのです。祈りによって出来るのです。