主題 <あわれみの器によって>
聖書箇所 ローマ人への手紙 9章 (2011年10月 1日)
今日のみことば「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(16)
「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言ったパウロはここで、9章から11章において同胞イスラエルの民の救いについて記していきます。パウロは異邦人宣教にばかり目が向いていたのではないかと思わされるが、3節「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言うほどに、同朋イスラエルの民が救われることを願っていました。
ここで、私たちも同胞である日本人のために、私たちの近くにいる隣人のために、友人、家族の救いのためにどれだけ祈っているだろうか。パウロは同胞イスラエルの民が救われるためならばのろわれても良いと言いました。ここには、パウロのなんとも深いあわれみ、愛が示されています。私たちが本当に隣人の救いを求め、祈っていくならば、パウロのように愛に基づく重荷をもっていかなくてはならないと思うのです。
19節から、パウロは陶器師と器を例に語り始めます。陶器師とは土から意のままに器を造り、その器を選び取る権利を持つように、神は人を選び取る権威を持つ方として語られ(20~21)、器については、「怒りの器」(22)と言われているのは、イスラエルの民が神に背いている故に、滅ぼされて当然のような状態を示していたが、しかし、神は「豊かな寛容を持って忍耐して」(22)、器を砕かれることなく保っていてくださっていることを今の同胞イスラエルの民の状態であることを語りました。
あわれみ深い神は「あわれみの器」をあらかじめ用意されたことが言われているが(23~24)、この「あわれみの器」とは、イエス・キリストを信じる者たちを指しており、この人々によって、神のあわれみは明らかに示され、同胞イスラエルを導いてくださるということにパウロは大きな希望を抱いていました。
そして、今日、私たち一人一人が「あわれみの器」として残されているということ、そして、主の救いの御業のために残されていることを覚えたいと思います。今日、共に主のもとに導きたい方のことを覚えてお祈りをささげましょう。