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2012年3月20日 (火)

主題 <神の時、神の方法がある> 

聖書箇所 創世記 16章    (2012年 3月 6日)

今日のみことば「ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。」(16)
 アブラムの次の世代の子孫が与えられなかった中、妻のサライはエジプト人の女奴隷ハガルによって与えられる子どもを自分たちの子ども、子孫として育てていこうとアブラムに提案する。そして、アブラムは妻サライの提案に対して、「自分の身から出た者が継ぐ」ということであるならば、神の約束の成就であると考え、この提案を受け入れたのだった。
 そして、ハガルはアブラムの子を身ごもった。この時からハガルはサライを見下すようになり、サライはハガルをいじめるようになり、ついにハガルは追い出されてしまった。ここに、人間的な解決を求めていった中におこった悲劇を見る思いがする。時に最善と思われたことが、問題となってしまうことがある。
 追われたハガルに対して、神は11~12節で言われているように、与えられる子どもを祝福されると言われ、あわれみを示された。さらなる悲惨なこととならないように神は介入され守られたのだった。
 アブラムは子孫を持つということのために、ハガルの胎を借りるということをしたことは、身勝手なことであったと言わざるを得ない。結果的に、アブラム、サライ夫婦にとってもこの後、問題の種となっていくことになった。何よりも子孫を与えられると約束されたのは神であったが、アブラムは人間的な手段で神が与えられると言われたことを成就しようとしたとも言える行動であった。それは目的が正しければ、手段は問わないという考えに通じるように思わされる。
 私たちは神がなされることがあると信じ、また、神がなされる時があり、神のなさる方法があるということをわきまえなくてはならない。
 いつの時にも、私たちは神のみこころを覚えて、待ち望む者とならせて頂きたいと思います。