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2012年4月 2日 (月)

主題 <さいわいな生涯>

聖書箇所 創世記 47章    (2012年 4月 6日)

今日のみことば「ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」」(9)  
 エジプトに到着したヤコブたち一族はエジプトの王パロによって最も良い地であるゴシェンの地に住むことが許された。
 ヤコブはパロと会見し、「私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(9)と言っている。確かに、ヤコブの齢は先祖たちにくらべ短く、度重なる苦しみ、試練の連続だったという点でふしあわせであったかもしれない。しかし、ヨセフの導きにより、エジプトにて安住が許され、何よりも家族たちと共に過ごすことができる晩年を送ることができたのはしあわせであったのではないだろうかと思う。おそらく「ふしあわせ」であったという不満を述べたのではなく、この価値観からすれば客観的には「ふしあわせ」と思っても、ヤコブの生涯全体的には神の導きのうちに最善がなされたこと、エジプトの地に来て、ヨセフとの再会と安住が与えられたことの感謝を強調しようとして言ったことばとも取れるのではないだろうか。
 なおもききんが続く中、ヨセフは食料の代わりに、銀、家畜、農地を買い取り、最終的に買い取った農地に種を蒔かせて、その収穫の五分の一をパロに収めさせるように命じられている。ヨセフはあらゆる点で用意周到な統治者としての力を発揮した。そして、いよいよ父ヤコブは寿命が近づきつつあった。
 ヤコブ、ヨセフとそれぞれの生き方、賜物、経験、すべては異なり、何をもってしあわせというのか考えさせられる。ただ一つ言えることは、ヤコブにしても、ヨセフにしても、さまざまな苦労を経て、最後は主の祝福にあずかったということではないだろうか。しあわせな生涯は主に最後まで従う歩みの中にあるのを覚えたい。