主題<羊飼いであられた神>
聖書箇所 創世記 48章 (2012年 4月 7日)
今日のみことば「それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(15)
ヤコブは自分の寿命を悟り、最後にヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを祝福する。マナセとエフライムをヤコブの子として、祝福を受け継ぐ者たちに加えられていく。
ヤコブは彼らを祝福される時に、「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(15)と告白している。ヤコブにとって、全能の神は、同時に共におられ導かれる神であったことを告白したことばであったことが分かる。ヨセフの子どもたちを祝福するにあたり、かつて自分は兄エサウと偽って祝福を奪うようなことまでした利己的」で、貪欲な者であったが、神のあわれみは尽きず、見捨てることなく導き続けてくださったことを思い起こすように、主の導きの確かさに感謝しつつ、ヨセフの子どもたちの今後の歩みを導いて頂けるように願った、真実な祝福の祈りのように響いてくるものがある。
この祝福の祈りの場面で、父ヤコブの右の手が弟のエフライムにのせられ、左手は長子のマナセの上に交差してのせられているのをヨセフは間違いと思い、手をのせかえようとする。しかし、ヤコブは「わかっている。」(19)と言って、エフライムの方がより多くの民となることを暗示し、祝福された。ヤコブ自身もそうであったが、人間的な手段で弟が祝福を継承していったが、それはすでに神のご計画であった。それは神ご自身が定められたということでもあり、エフライムもすでに神の選びの中に、より多くの祝福にあずかるとされていたということで、これは神が定められ、導かれていくことで、人間の入り込む間は与えられていないことであることを示していると言えよう。
主の導きにゆだね従う者となれるように祈ろう。