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2012年4月 2日 (月)

主題<シェケムでの事件から考えること>

聖書箇所 創世記 34章    (2012年 3月24日)

今日のみことば「ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。」(15)

 エサウと和解したヤコブはエサウの住むセイルの地へと行かず、シェケムへ向かった。このシェケムの地でヤコブの娘ディナが辱められるという事件が起こった。シェケムのハモルとの話し合いで一端は平和的解決を見たように思うが、ディナの兄たちによる復讐の策略が背後に隠され、さらなる悲劇が続いた。
 この一連の事件の中で、一つは割礼を施すことを求めたことであるが、割礼の意味を語ることなく、ただ割礼を受けるように勧めているところに、信仰なき信仰となり、形骸化してしまっていたのではないかということが問われるように思われる。単に、割礼を施すことが一つの民となるという言い方は、以外にも私たちが形式、形だけが先にいって、信仰が問われないならば問題である。
 もう一つは復讐ということである。割礼を施したヒビ人を襲撃し、報復したことが、ヤコブの本意ではなかったが、したことに対しての責任を取るということよりも、さらなる復讐を恐れ、悔い改める姿勢がヤコブに見られなかったことは残念なことであったと思う。復讐に続く、復讐への恐れ、この連鎖は今の時代にも通じている。復讐から解決を見出すことは決してできないことを思わされるのである。
 繰り返される悲劇が続かないように、執成しの必要を覚え、悔い改め、赦すということができるための備えのために祈らなくてはならない。