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2012年5月

2012年5月10日 (木)

主題 <今に、あなたにわかる> 

聖書箇所 出エジプト記 6章   (2012年 4月17日)

今日のみことば「それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」(1)

 あなたは神様の熱心ということをどれ程思ったことがあるだろうか。
 1~8節を読んで見て、その激しい熱心に圧倒されてしまう。エジプト王国に対抗するにはあまりにモ-セは貧弱です。口下手ですと何度口から出ていることだろう。そうした彼に対する神様の働きかけは凄まじい。
 『わたしは……』と何度語っていよう。どんな内容について神様の恵み豊かな姿を語るのだろうか。わたしがあなた方の神、主であると何度も語る。変らぬ契約を立てた地に連れていくという。
 わたしは<救う、あがなう、連れ出す>、と繰り返されている。
わたしはこれほどまでの神様の熱愛を思い浮かべただけでただ感動してしまう。天も天の天も創造された神様が、一人モ-セに対してこれほどの言葉で、過去の契約を、現在の力を、将来のビジョンを熱っぽく語られて、動かぬ人はあるまい。
 『今にあなたにわかる』とは現状ばかり見る弱い私たちへの行き届いた神様の今日のメッセ-ジである。
<祈り>主よあなたはこんな貧弱なわたしに限りない恵みをもって導いてくださることを知り深く感謝致します。ア-メン

主題 <主とはいったい何者か> 

聖書箇所 出エジプト記 5章   (2012年 4月16日)

今日のみことば「パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」」(2)

 いよいよ神の人モ-セが、出エジプトの使命に立ち上がったのである。
 それは決して平坦な道ではない。神のご使命であるがゆえにスム-スにいくのだと思ってはいけない。時にきわめて困難の山が立ちふさがる場合が多いと自覚した方がよい。神は困難の中できわめて貴重な訓練を与えるのです。成長したクリスチャンは必ず荒野を通り抜けています。
 『主とはいったい何者か。』とはパロの言葉です。パロはかたくなにイスラエルを妨害し尽くすのです。エジプトとパロはこの世の姿を啓示するかのようです。主に仕えようとするほどに、激しい攻撃をしてくる。
 『怠け者だ』とも訴えて来る。神を愛し神に従う生き方を人々はどう評価してくることだろうか。あなたは信仰のない家族や友に、どんな言葉をかけられたことがあろうか。
 そんな時に、『これは悪いことになった』(19)としっぽを巻いてしまうだろうか。それとも『主のもとに戻り』祈るだろうか。(22)。神に従う者に与えられる力を信じよう。このパロは海の中に滅びた人々なのです。
<祈り>主よあなたを愛しあなたの思いをわが思いと致します。多くの困難や戦いを喜べるようにしてください。ア-メン

主題 <モーセは手に神の杖を持っていた>

聖書箇所 出エジプト記4章18~31節(2012年 4月15日)

今日のみことば「そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。」 (20)

 ついにモーセは神の召命に従い、妻の両親に別れを告げます。「モーセはエジプトの地に帰った。」(20)といわれています。40年前に、自分の力で苦役にある同胞を救おうとして立ち上がったあの人間的な勇気ではありません。
 今モーセの手にあるのは「神の杖」1本です。長い間、牧羊者として使い慣れた杖です。歩くために、羊を養育するのに、狼から防ぐために使ってきた杖です。何のことはない平凡な杖です。しかし、今この杖が「神の杖」と呼ばれています。
 神が「あなたの手にあるそれは何か」と言われ、それを投げたときに蛇になり、再び手に取ると杖に戻ったのです(4:1~4)。 自分のものが投げ出された。自分の手をはなれて、神様の手に渡ってしまったのです。もうこの杖はモーセのものではなく、神のもの、「神の杖」です。 
 やがてこの杖は、パロの前や全エジプトの人々の前で行われる奇跡の道具になるのです。紅海を2つに分け、岩から水を出させる杖です。
 ごく平凡な主婦も、サラリーマンも、年を重ねた人もまた、神様に明け渡してゆくとき、神に用いられる杖になるのです。杖そのものは特に意味がありません。あなたの手にあるもの、それを神にささげるのです。神はあなたを用いて、栄光を現して下さるのです。
<祈り>主よ。今私の手にあるものすべてをあなたにささげます。

主題<ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください> 

聖書箇所出エジプト記4章1~17節(2012年 4月14日)

今日のみことば「すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」」(13)

偉大な仕事を成し遂げるモーセの、意外な面を見せられる思いです。大きな仕事をする人の中には、とても尊大で、人を人とも思わないような人物がいます。しかしモーセは違います。謙遜の限りです(民数記12:3)。
 人々は私を信じないでしょう。受け入れてくれないでしょう、とだだをこねるような歯がゆいやりとりを見ます。男らしくない、神様の大いなる芝の火の中に御声を聞いただけで十分ではないか、神様が一緒に行って下さる、と約束していて下さるのではないか。   1節にある「ですが、彼等は私を信ぜず、私の声に耳を傾けないでしょう。」とあるように、モーセの声には耳を開かないでしょう。でも杖が蛇に変わる奇跡によって神を信ずるべきです。手がらい病にかかったしるしを見て、「彼等は信じるであろう」という神の言葉を受け取るべきだったと思います。モーセはさらに私は口べたです、言葉の人ではありませんと断るのです。「ああ主よ。どうか他の人を遣わして下さい」と召命にしり込みするのです。
 神様が選んだモーセは間違いだったのでしょうか。いいえ、神様の目には狂いはありません。これほどまでに自分の無力さ、いたらなさを深く悟った人こそ神は用いることを学ぶべきです。今もこうしたへりくだった人を神は捜し求めています。
<祈り>主よ。すぐに自分の能力をほこりがちな私たちを戒めて下さい。

主題 <私は「私はある」という者である>

聖書箇所 出エジプト記3章13~22節(2012年 4月13日)

今日のみことば「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」」(14)  
 モーセは神様とはどのようなお方であるかを尋ねます。神様とはどのようなお方であるのか、それを人々がどう正しく受けとめられるのか、それがモーセの課題です。
現代もまた、神とはどのようなお方であるかを知ることこそ最重要な仕事です。
 神はこのモーセの願いを通して、大切なご自分の自己啓示をしておられます。わたしは「ある」という者であるといいます。
 神とは「ある」という方であることをどう理解したらいいのでしょう。「ある」とは英語で<I am>です。神はいつも、どのような状況の下にもあると言われます。今まで漠然としていた神が急に現実味を帯びてきます。「私たちは神の中にあって生き、動き、存在しているのです」(使徒17:28)。「たといあけぼのの翼をかって海の果てに住んでも、そこでも御手が私を捕えます」(詩篇139:8~10)。
 神はあなたにとって常に「ある」方です。すべてを神は、み手の中に持っておられます。愛も平和も力も慰めも、糧も、人間もみ手にあります。神はあなたに対してご自分を啓示し、そのことを深く受けとめることを期待しておられます。 もう1つの名は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」です。「永遠に私の名、これが代々にわたって私の呼び名。」(15)と宣言されました。哲学者パスカルは、生きた神であって、死んだ者の神でなく、哲学者の神でもない、今も生きている神と書き、着ていた服に縫い付けていたそうです。思索によって形つくられた神々でなく、今も生き生きと働いて導いて、関わって下さる神です。

主題 <わたしがあなたを遣わすのだ> 

聖書箇所出エジプト記3章1~12節(2012年 4月12日)

今日のみことば「神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」」(12)

 神の御計画したことは、必ず成っていきます。イザヤ書46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
そしてこの神様の計画やみわざは人を通して行われるのです。このために神は人を選び、用いられます。
 2章23~25節にエジプトにいた神の民イスラエルが激しい労役のためにうめき、その叫びが神様のもとに届いたとあります。そして3章7~9節において彼等の叫びを受け止めて、救い手としてモーセを選ばれたのです。 モーセは羊飼いとなり、神の山ホレブにきました。彼はエジプトで同族を救おうとして失敗した人物(2:15)であり、80才になっていたのです。人間的な見方からすれば用いるには年老いすぎ、挫折の中に40年もいた人ですので、目をかけるにはふさわしいことではありません。ただ神はこのモーセを選び、召されたのです。
 人間的には本当に愚かと見え、無力すぎる人物を神はあえて用いるべく召されたのです。「モーセ、モーセ」と2度名前を繰り返された例はきわめて少ないのです。 モーセは「わたしはいったい何者なのでしょう」と自覚している。わたしは何なのか、という問いには謙遜な自己評価が見られます。神はこのような器を探し求めています。なぜ神がへりくだった人を選び用いるのでしょうか。なぜ人間的な限界を深く悟った人を捜しているのでしょうか。そんな人こそ自分の力を過信せずに、神様に従えるのです。神はご自分の御心を人に示し、自由に用いられます。神は「あなたを遣わすのだ」「はい。私はここにいます。」と答えている。

主題 <さて、レビの家のひとりの人が>

聖書箇所 出エジプト記 2章   (2012年 4月11日)

今日のみことば「さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。」(1)

イスラエルの激しい苦難の時代にも、神を信頼して行動していた一人の人を考えたい。レビというこの人の家族は、父が信仰的な歩みをしてゆくことによって、将来の指導者が生まれる素地を形成していたのです。『さて、レビの家の一人の人がレビの人の娘をめとった。』とある(1節)。異邦の地にあって、神への信仰もなにもあったものではない、と考えるのは当然の雰囲気だったろう。社会全体が結婚や生活についての日常の中に、神のみこころよりも、自分の生き方を優先するのは決して昔も今も変わることがない。
でも、このレビの家の一人の人は違っていた。自分の信仰を第一にしつつ、結婚も、育児も、教育も、あらゆる選択も行っていった。レビ人には、とくに神に近く仕える奉仕が備えられている。そういう信仰を人生の大事な結婚において明らかにし、選択してゆくのである。
 この影響が、妻ヨケベテにも、長男アロン、長女ミリヤムにも、そして次男モーセにも受け継がれてゆくこととなる。イスラエルの救済の歴史は、こうした信仰に立つ家族から生まれてきたことをよく学んでおきたい。
 モーセが成人した後に、エジプトの栄華よりもキリストの民と共に苦しむことをあえて信仰と喜びをもって選択した(へブル人への手紙11章)のも、父母の信仰の生き方が土台にある。
 こうしてモーセの歩みが、この家族から始まったことを覚えて、その信仰に貫かれた足跡をみならいたい。
<祈り>あなたを『主よ』とお呼びし、従うものにして下さい。結婚も育児も、就職も、進学も、仕事も。ア-メン。

主題 <苦しめれば苦しめるほど> 

聖書箇所 出エジプト記 1章   (2012年 4月10日)

今日のみことば「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。」(12)

 いよいよ、出エジプト記を学ぶことになります。名前のとおり、イスラエルの民族がエジプトにゆき、わずか400年間に、200万人に成長して、一民族となり出エジプトをするのです。創世記から出エジプト記までの間に、記録には見えない神のすばらしいご計画が進んでいたことに驚くのです。
 最初の場面は、苦難の物語である。人生には、思いがけない試練に見舞われる時代に生きることがままある。戦争という時代に生きることがあり、自然や原発事故の苦難もあり、家族の中に悲しみの時代もある。しかし、聖書は神を求めるときに、多くの問題の最中にも決して孤独ではないことを物語る。
 12節には『この民は、苦しめれば苦しめるほどますますふえ広がった』と記している。エジプトの繁栄と裏腹の悲惨、苦難の歩みが奴隷としての悩みがあるにもかかわらず、それが救いにつながるのです。この出来事が栄光の歴史への糸口にさえなるのです。そのときの状況が、思いもかけない世界の救済のメッセージを取り次ぐ器として用意されていたのです。見えるところによって一喜一憂せずに、常に神を求める生涯でありたい。
<祈り>主よ。今日一日も、あなたと一緒です。主にあっては、困難の時も、恵みの時代であり、救いの働きへの準備であることを教えてください。アーメン。
<祈りの課題>苦難に置かれている兄弟たちのために

主題 <悪が良い計らいへと変わる>

聖書箇所 創世記 50章     (2012年 4月 9日)

今日のみことば「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(20)

 創世記の最後、50章では、父ヤコブの死を悼み、かつての遺言の通りに、ヨセフはカナンの地にヤコブの遺体を運び、アブラハムが買い取ったマクペラのほら穴に埋葬した。エジプトに定住するようになった父ヤコブは大変大きな存在であった。そのためヤコブの死に際し、ヨセフは非常に大きな悲しみの中、喪に服した。けれども父の遺言の通りに行い、最後まで父ヤコブに誠実を尽くした。
 父ヤコブの死は、少なからず兄弟たちにも動揺があった。しかし、その動揺は、ヨセフが兄弟に対して報復するのではないだろうかという恐れからくるものであった。そこで、兄弟たちは一計を案じ、父ヤコブが兄弟たちを許すようにという遺言を残していたと言って、ヨセフに言い聞かせようとした(16~17)。
 それに対して、ヤコブはかつて兄弟たちに言った通りに答えている(20、45:5)。それも優しく、慰めるように語りかけている(21)。ヨセフは兄弟たちがかつて行ってしまった罪にさいなまれている姿を感じ取り、配慮して、もうすでに赦していることを改めて伝えた。
 罪を犯してしまったことは、容易に消えることではなく、人を苦しめることも、罪の連鎖ともなることがある。ヨセフは兄弟たちが今もなお犯した罪に苦しめられているのを感じ、泣いたのだった(17)。しかし、それにも増してヨセフは慰めと愛をもって語りかけ、共に生きることを約束している。ヨセフが兄弟たちに示した和解はキリストの和解の型であると言われている。
 創世記の最後には、その神の備えて下さっている豊かな和解の姿で閉じられている。神の下さる和解の恵みに感謝したいと思う。