主題 <会見の天幕における務め>
聖書箇所 レビ記 24章 (2012年 6月15日)
今日のみことば「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。」(2)
まず祭司によって聖所内で守られた、日ごとの礼拝の儀式について書かれている(1-9)。1~4節は、幕屋の聖所内の、ともしびについての教えである。民はオリーブ油の上質のものをささげ、燭台のともしびは、消えないように保たれた(2)。幕屋には窓がなかったが、この光が暗やみの中で輝いていたのである。主イエスは「私は世の光です」と言われた(ヨハネ8:12)。信仰者は、主イエスの光を反映する「世界の光」であり、罪の蔓延する暗やみの世界の中で、神の光を輝かせるのである(マタイ5:14~16)。また、安息日ごとに新しいパンが供えられ、古くなったパンは、最も聖なるものとして、アロンとその子らのものとなった(9)。主イエスは、ご自身を天からの「まことのパン」と言われた(ヨハネ6:33)。このように聖所の礼拝においてパンがささげられたことは、主イエスが、人のためにご自身をささげられたことを象徴している。私たちが主イエスを、自分の罪のためにささげられたお方だと信じるならば、主イエスは、私たちの「いのちのパン」となる。このパンを食べる者(すなわち信じる者)は永遠に生きるのである(ヨハネ6:35、47~51)。
本章の後半は、人間の醜い罪の実情を、礼拝に生きる祭司の姿と対比するように記している。エジプト人を父としていた者が、イスラエル人と争いを起こした(10)。詳細については記されていないが、この争いを起こした者は、主の御名を冒涜してのろったのである(11)。律法の与えられた直後の罪であり、彼は死刑となった(23)。
17~21節は、償いの義務について教えている。
世の光、いのちのパンとして来られた主イエスを覚え、主のすばらしさを語り継ぐ証し人として生きていきましょう。