主題 <肉に関する教え>
聖書箇所 レビ記 17章 (2012年 6月 8日)
今日のみことば「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(11)
17章では特に、聖なる民として肉を食べることについての教えが書かれている。
イスラエルの民は、聖なる民として、いけにえとしてささげられた動物の肉を食べることができた。しかし、それ以外の時に食するときにも、いけにえの場合と同じように、まず動物を祭司の前に持って来なければならなかった。祭司はそれを、和解のいけにえとして、主にささげた(5)。「やぎの偶像」とは(7)、当時の異教の民が拝んでいた偶像のことであろう。もしもイスラエル人が動物を殺して、それを主の御前にささげないならば、他の民のように容易に、異教の神にささげる可能性があったと考えられる。
また民は、きよい動物を食べる場合でも、血を食べることは許されなかった(10)。血は罪人の贖いのために、用いられたからである(11)。罪人を贖うためには、だれかがいのちを捨てなければならなかった。血はいのちの象徴であり、血を流すことは、いのちを捨てることを意味した。それ故に血は尊いものだったのである。この戒めの中でも、神は、やがておいでになる救い主(メシヤ)が、罪人のためにいのちを捨て、尊い血を流してくださることを教えておられる。獣や鳥を狩りで捕らえるなら、血は注ぎ出され、土で覆われた(13)。自然死や、野獣に裂き殺されたものの肉は、正しい方法で血を注ぎ出していないから、原則として食用にしてはならなかった(15、16)。
今日の箇所から、主イエスが十字架の上で血を流されたこと、いのちをささげてくださり、私たちの罪の贖いをなしてくださったことを心から感謝したいと思います。