主題 <贖いの日のおきて>
聖書箇所 レビ記 16章 (2012年 6月 7日)
今日のみことば「以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。」(34)
16章は、一年に一度行なわれた、イスラエル全体のための贖罪の日について書かれている。それは当時の七月十日であり、イスラエルにとっては、非常に大切な日であった。この日には、彼らは「身を戒めなければ」ならなかった(29)。イスラエル人は、それを断食をすることと解釈した。「身を戒める」は、「身を悩ます」とも訳されるが、イスラエル人は、この日には自らを深く顧み、罪を悲しみ、贖われている者であることを感謝し、神の御前に謙遜な思いをもって、一日を過ごすことが要求されたのである。
この日には、すべての民が、どんな仕事もしてはならなかった。神がすべての罪を赦し、民をきよめてくださるからである(29、30)。
まず、大祭司アロンは、自分自身と、彼の家族のために贖いの儀式を行なった。大祭司も罪人であったからである(3-14)。服装のことも含めて、彼らは厳格な規定に従わなければならなかった。またアロンは、特別に二頭のやぎを準備した(8)。一頭は殺され、その血が取られ、会見の天幕の内側に持って行かれ、贖いの儀式に使われた(15-19)。もう一頭は、アザゼルのためであった。やはり贖いのために用いられたが、アロンがこのやぎの頭に両手を置いてイスラエルのすべての罪を告白した。このやぎは、イスラエルの罪を負い、野に放たれた(10、21、22)。アザゼルの意味は不明である。
次に、イスラエルの民全体のために贖いの儀式を行なった。その中には、聖所と会見の天幕のため、祭壇のための贖いも含まれていた(20)。ここに出てくるすべてのいけにえも、主イエス・キリストの型(タイプ)であった。