主題 <私と私の家とは、主に仕える>
聖書箇所 ヨシュア記 24章 (2012年 9月20日)
今日のみことば「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15)
シエケムで再び神様の契約をイスラエルの中に語りなおしている。23章にもある通りの祝福とのろいの分れ目は、主を愛し、主を恐れ(14)、主に仕える(15、18、21、22、24、)ことです。
指導者ヨシュアは『私と私の家とは』と控え目に語るが、イスラエルに激しい挑戦をしたのである。最後にいのちある限りにおいて、人々に対して、主に仕えるか、偶像に仕えるかを迫ったのです。
それは主なる神が『聖なる神であり、ねたむ神である。』(19)ことを深く知っていたからです。神を愛する者には恵みを千代にまで及ぼし、従わないものには神からの審判がある。
イスラエルが出エジプトの後、シナイの荒野で不信仰、不従順のためにどんなに神の心を傷付け、悲しませ、主のことばとおりに滅んでいったことか。
31節にあるように、『そのすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた』という聖句にギクリとさせられている。
控え目だが、ヨシュア自身とその家族は腹が決まったのです。そして全イスラエルに霊的決断を促している。今、どう応答すべきなのであろう。この世半分、神半分では祝福を受けそこなう。
<祈り>主よ。ヨシュアの激しい主を愛する心に動かされています。生涯を貴き主に仕えます。アーメン。