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2013年1月

2013年1月16日 (水)

主題 <主を試みることば>

聖書箇所 士師記 11章     (2012年10月 1日)

今日のみことば「エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」」(35)

 エフタは勇士であるとされながらも、遊女の子であったため。後に家を追われることとなってしまい、ごろつき共たちと付き合うような生活をしていたことを思うと、彼の人生はあまり幸せなものではなかったと言える。そのようなエフタであったが、ギルアデの首長たちとの交渉(6~11)やアモン人たちとの交渉(12~27)で用いられた。私たちは欠点と思えること、不幸な生い立ちを理由に自分の人生を悲観してしまうことがあるのではないだろうか。しかし、これほど多くの欠点を持っていたにもかかわらず、神はなおエフタを用いることがおできになったことを覚え、神はどのような者でもお用いになられることがることを覚えたい。
 もう一つエフタから忠告として学ばなくてはならないことがある。エフタはことば巧みに交渉するほどにことばに力があった。しかし、そのことばの力は誓願をたてるということで、神に信頼するのではなく、自分のことば、誓いのよって、つまりは神に対して取引の祈りのように誓願を立てることをしてしまい失敗してしまっている(30~31)。結果的に戦いに勝利したが、自分の娘を失うこととなった。でも、このエフタの娘も主の前に立てられた誓願の重みを受け止めていったことを思う時に、自分のことばではなく、どこまでも主に信頼していくことに徹底していくことが重要であることを思わされる。
 自らの軽率なことばを戒め、主を試すような祈りことばとなっていなか今一度注意したいと思います。

主題 <苦しい時だけの信仰>

聖書箇所 士師記 10章     (2012年 9月30日)

今日のみことば「彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」 (16)

 アビメレクによる混乱の後に立ち上がったのは、イッサカル人トラであった。イスラエルを「救うために」と表現されていることに、彼の働きの中心を見ることができるだろう(1)。彼は23年にわたってイスラエルを治めた(2)。続くギルアデ人ヤイルは、22年間治め、その記述には豊かさと権力が暗示されている(3、4)。しかしたとえ長い間イスラエルを治めても、彼らを取り扱う紙面は短い。
 ヤイルが死んだ後、イスラエルはまたもや主の御前に悪を重ねた。状況が好転し、物事が落ち着くと、人が主から離れてしまうという弱さは、昔も今もあまり変わらない。彼らは主を捨て、主に仕えず、様々な偶像に仕えた(6)。それゆえに、主はご自分の民をペリシテ人とアモン人の手に渡された(7)。彼らと同じ偶像を拝みながら、彼らに支配されるとは何という皮肉であろうか。人間的な友好は、主の御前に意味をなさない。
 18年間の苦しみの中で、彼らは主に叫んだ。その叫びは、「苦しいときの神頼み」という域を脱しないものにしかすぎなかった。主は彼らを突き放している(13、14)。しかし彼らはその後、主の御前にへりくだり、外国の神々を捨て去り、主に仕えた。そのように悔い改めた民の姿をご覧になられた神の御思いが16節に示されている。今も主は同様にこの地上をご覧になられ、悔い改めて主に仕えようとしている民の姿を見ていてくださっているのではないだろか。
 主の憐れみにを覚え、苦しいときだけでなく、いつの時にも主に仕えていく者となりましょう。

主題 <自己保身の戦いの末>

聖書箇所 士師記 9章      (2012年 9月29日)

今日のみことば「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた。」(56)

ギデオンの後、70人の息子の中からアビメレクがイスラエルの王として立った。かつて父ギデオンでさえ、王にはならなかったがそれだけにアビメレクは野心家であったと言える。アビメレクは自らの野心に基づいてシェケム人を利用するが、人間的な思い出の同盟は、結果的には裏切られることになり、その霊を送られた神によってであった(23)。
アビメレクは、シェケムでの戦いに勝利を続けることになるが、その勝利そのものが、最後には彼にとっての落とし穴となる。彼は、戦略においては優れていたかもしれない。しかし、主の御前に、肝心な点が欠けていた。それは、主のみこころに従って戦いを進めていくということである。彼は、王としてはふさわしくない器であった。アビメレクは、主の戦いをせずに、自分の義(自己保身)のために戦ったのである。そのようなときには、たとえ戦いに勝利しても、やがては不名誉な結果を招くことになる。ギデオンの、「主の戦い」を思い起こそう。ギデオンは、自分の弱さを自覚し、徹頭徹尾、主に信頼するために、主が勝利を保証してくださるかどうかを、戦う前に確かめた(6章参照)。しかしこの箇所には、主を求めず、主に信頼しないで戦いを進めた場合の実例が、鮮やかに示されている。
 彼の最後は、一人の女性によって死に追い込まれることになった(53、54)。その結末は、カナンの将軍シセラが、ヤエルによって殺されたことに似ている(4:21)。当時の男にとっては、女によって殺されることは不名誉なことであっただろう。しかし自分が死んだ後まで、恥を隠そうとした彼の生き方は(54)、愚かとしか言えない。

主題 <謙遜さを失わせてしまう弱さ>

聖書箇所 士師記 8章      (2012年 9月28日)

今日のみことば「ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」――殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである――」(24)  

 イスラエルは、ギデオンに王になることを求めたが(22)、彼は、「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」と(23)、一見、最もなことを言って辞退している。しかし、ギデオンは、戦利品の金の耳輪を集め、1700シェケル(約20㎏)もの金で、元来は大祭司の式服であるエポデを作って、個人崇拝を励行し、主に栄光を帰さなかった。その背後には、大祭司の存在を軽んじる罪が隠れている。また、自分の家に戻ったギデオンは、当時の王たちのように大勢の妻をめとり、七十人の息子を得るようになった。正しく主を恐れず、頭では理解していても、実際にはなかなか主に栄光を帰せない、人の弱さが反映されている。
 この結果、最初はオフラの町で、バアル崇拝を取り除くことから始まったギデオンの時代は、より全面的な偶像崇拝へと堕落してしまうこととなった(27、33、34)。ギデオンの場合、それは戦利品の耳輪を求めたところから始まった。いつしか、自分の手柄として報酬を求めたところに、弱さがあったのである。
私たちも最終的に主の前に従順に、謙遜に歩んでいるかが問われるのである。

主題 <自分の力ではなくて、主の方法で> 

聖書箇所 士師記 7章      (2012年 9月27日)

今日のみことば「そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(2)

 ミデヤン人との戦いを前にして、神はギデオンの指揮する兵をごくわずかな小隊に縮小させた。戦うために、味方が敵よりもすぐれた火力を持ち、兵員も多く、よりすぐれた科学技術を持つことを求めるものである。
しかし、神はギデオンの軍の兵力を物笑いの種になるほど縮小され、全く何もすることができないようにされる。神は、弱く無力な者たちを喜んでお用いになる。神は彼らを選んで、彼らから何かを造り出すことがおできになる。だから私たちにはみな希望があるのである。
 キリスト者も、主のために働く時に、時には、神は人間の力を通しては働かれないということを忘れることがある。私たちは、自分の能力や技術や訓練に頼ることを好むが、成功は、実は神が私たちを通して行おうとしておられることにかかっているのである。
 私たちが何か新しい冒険的な事業にとりかかる時には、いつも二つのことが重要である。
 第一に、私たちはそれを神の方法によって行う。
 第二に、私たちはそれを神の御力によって行う。
 このことをギデオンとその兵たちは知らされたのではなかと思う。私たちも主の方法と御力による御業に期待する者とならせて頂きたい。

主題 <恐れと疑いからの解放>

聖書箇所 士師記 6章      (2012年 9月26日)

今日のみことば「すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」」(23)

 6章からは、さばきつかさとしてギデオンが登場する。しかし、ギデオンは最初、恐れと疑いに満ちていた人であった。
 小麦の脱穀には、もみがらを吹き散らす風が必要である。酒ぶねのなかでは、あまり風はない。ギデオンはわざわざ条件の悪い所で仕事をしていた。それは、ミデヤン人を恐れていたからだった。また、ギデオンは主にしるしを求めました(17)。確たる確証がないと行動を起こせない懐疑心に支配されていたとも言えます。
 これらのギデオンのうちにあった恐れや疑いに対して神は共におられることと具体的なしるしを伴って知らせて下さいました。何よりもギデオンの求めに聞き応えてくださった神の憐れみを思わされる。
 私たちは、疑いや恐れを抱いている時に励ましを必要とする。神は恵み深くも、一度ならず二度までもそれを与えられる。この出来事を根拠として、自分が決定を下す前に神にしるしを求めようとする人々がよくいる。しかしそれとギデオンのしていることは違うということを確認したい。彼は神のみこころを知っている。彼に必要なのは、神の臨在が保証されることでした。神は、疑ったり恐れたりしている人々のありのままの状態を受け入れられて、御力をお与えになる神を改めて知った人であったということである。
 私たちも主を第一とし、確かに御業をあらわしてくださるお方がおられることを覚えて歩む者とならせて頂きたい。この信仰に立つことが恐れと疑いから解放されていく方法なのである。

主題 <それぞれの賜物を用いて> 

聖書箇所 士師記 5章      (2012年 9月25日)
今日のみことば「目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕らえて行け。アビノアムの子よ。」(12)
 5章は、デボラとバラクによる勝利の歌が書かれています。
 デボラとバラクが、ともに神への賛歌を歌ったことは、人間的に見れば、不思議なことではないだろうか。バラクの臆病さと、デボラの勇敢さは、対照的であった。しかし二人とも、神によって用いられた。バラクは、始めはデボラの言葉を信頼し切れなかったのかもしれない。彼は、デボラに同行を求めた(4:8)。デボラは、このような神のことばに対する、バラクの不信仰な答えに当惑したかもしれない。彼女は、またバラクの不信仰のために、彼は栄光を得ることができないと預言した(4:9)。しかし彼の不信仰は、イスラエルを救うという神のみわざの妨げにはならなかった。デボラはまさにイスラエルの母と呼ばれるのにふさわしかった(7)。
 神は、女性のヤエルを、戦いの勝利のために用いられた。彼女の家とヤビンの家は親しかった(24-31)。敵の王と親しかったということは、イスラエルにおいては、これまでは、必ずしも評判の良いことでなかったかもしれない。しかし、イスラエルの勝利を決定付けるために、神はそのような関係にある者をも用いられた。
 神のみわざは、決して一人の特定な人が担うのではない。一人一人の力にも、信仰にも限界がある。神は一人の足りなさを、他の人によって補われる。また神は、一人一人を、その賜物に応じて用いることがおできになる。
 5章の勝利の歌は、それぞれの賜物が用いられて勝利したことを歌っている。チームワークの勝利の歌と言える。今日私たちは共に戦う信仰の仲間があることを感謝し歩みたいと思います。

主題 <神のみこころを求めて実行する>

聖書箇所 士師記 4章      (2012年 9月24日)
主題 <神のみこころを求めて実行する>
今日のみことば「あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。」(6)

 士師記の最初のところには、イスラエルが神のことを忘れて神を捨て、その結果、外国人に支配されるようになり、その苦しみの中で神に叫び求めたとき、救い出されるというパターンが三回繰り返されている。きょうは四章を読むが、ここでもそのパターン通りのことが起る。
 デボラはそのような時代にあって人々をどのように導くべきかを示している。
 第一に、神の道を求めました。どのような立場においてでも、私たちが人を指導しなければならないとすれば、まず知らなければならないことは、神が何をさせようとしておられるかということである。
 第二に、明確な指示を与ました。デボラとは対照的に、バラクは気が弱くて、にえきらないように見える。彼女は神に頼っている。バラクは、神から任命を受けた後でさえ、頼ることのできるだれかほかの人を必要としている。
 神のみこころをはっきり理解し、そしてみこころに従おうと決断する時、私たちはデボラのように、他の人を励ますことができる。立派な指導者は、信仰と確信の人であって、それをいくらかでも他の人に伝達できる人である。
 デボラのように、神のみこころを求めて行ったように、私たち自身も主に求めていく者でありたい。そして、示されたのならば実行していく者となれるように祈りましょう。