« 2012年9月 | メイン | 2013年7月 »

2013年1月

2013年1月16日 (水)

主題 <ベニヤミン族へのあわれみ>

聖書箇所 士師記 21章     (2012年10月11日)

今日のみことば「ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって、連れて来た。踊っているところを、彼らが略奪した女たちである。それから彼らは戻って、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。」(23)

 十一部族は、自分たちの娘をベニヤミン族に嫁がせないと誓った(1-7)。しかし、ベニヤミン族との戦いが終わると、彼らは、神の民十二部族から一つの部族を失うことになったことを悲しみ、翌朝早く、神に全焼と和解のいけにえをささげた。そこには、何とかして紅や民族が絶たれないようにとの願いがあった。主の御前にささげていった祈りがあったが、しかし彼らは、主から答えを待つのではなく行動し始めてしまう。
 それは、女性がすべて殺されたベニヤミン族の、生き残った戦士六百人に妻をめとらせるため、ヤベシュ・ギルアデに戦いをしかけ、そこから女性を連れて来て与えるというものであった(8-14)。それでも女性が足りないために、さらにシロの主の祭りで若い女性を略奪するこというものだった(19-23)。確かに、ベニヤミン族に娘を嫁がせないという誓いには反しないし、娘の家族たちから復讐されないかもしれないが、それらが主の御前に正しいことなのかが問われるはずである。
 結局、一人の人への暴行から始まった事件は、シロの娘たちの略奪へと発展したのを考えるとあまりにも悲惨な事件へと発展してしまった背後に、人間的な考えと欲の恐ろしさを感じずにはいられない。 
 しかし、このようなイスラエルの民に対して、神は情け深く、あわれみ深い対処でイスラエルの民の回復へと導かれようとされている。
 主は私たちの行いにまさって最善を行われるお方であることを覚えたい。

主題 <主の介入>

聖書箇所 士師記 20章     (2012年10月10日)

今日のみことば「こうして、主がイスラエルによってベニヤミンを打ったので、イスラエル人は、その日、ベニヤミンのうち二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」(35)

 19章に続き20章では、レビ人が、そばめの死に至る事件を報告した(4-7)。しかし、実際に起こったことと、その報告とは異なっていた。実際に暴行したのは「よこしまな者たち」であったが、報告では「ギブアの者たち」という表現で、指導者たちがそれに加わったかのように言い、自分を殺そうとしたと言う(5)。また、自分がそばめを外に出したことは報告せず、そばめがその場で死んだのか、充分な介抱をしなかったので死んだのかも、明らかにしていない。自分の責任が一切問われない報告となっている。
 他人事のようなレビ人の報告とは対照的に、イスラエルの民は、ベニヤミン族の恥ずべき行動に怒りと報復を宣言する(10)。彼らはこれは主の戦いであるという熱情に駆られてしまう。疑わしいことばによって神の民全体が動かされ、利用されていく姿にも、私たちは自戒しなければならない。
イスラエルの民によって、自らの姿が指摘されたベニヤミン族ではあったが、彼らは聞く耳を持っていなかった。それどころか彼らは、部族全体でギブアに結集し、戦いの準備をした(13-16)。ベニヤミン族は最初、勝利していくが、結果的には徹底的に敗北する(42~48)。この戦いはイスラエル全部族にとって悲しみと傷となるが、最後に明らかにされていることは、主がこの戦いに終わりをもたらしたことにあることを忘れてはならない(34~35)。ベニヤミン族に見る高慢さ、それをそのままにされなかった主のさばきを見させられる。私たちは一つの偽証に始まった事件に、神は最善のさばき、解決を示されるお方であることを忘れてはならない。

主題 <歪んだ訴え>

聖書箇所 士師記 19章     (2012年10月 9日)

今日のみことば「そこで、家の主人であるその人は彼らのところに出て行って言った。「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。この人が私の家に入って後に、そんな恥ずべきことはしないでくれ。」(23)
19章からはイスラエル十二部族全体に関わる事件へとつながる出来事が記されています。
エフライムに住むレビ人は、ユダのベツレヘムから、一人の女性をそばめとしてめとった。しかし彼女は、夫を嫌って実家に帰ってしまう(2)。そばめの父は彼女を迎えに来た夫に、数日間、とどまるよう勧めた(1-8)。結果的に、遅く出発したレビ人たちは外泊しなければならなかった。ベニヤミン族でない寄留者の老人だけが場所を用意してくれた。そこに町のよこしまな者たちがやって来て男色を要求した(22)。神の民の性的な乱れが、明確に示されている。老人は、レビ人だけが守られればよいとばかりに、自分の娘と客人のそばめを提供しようとした。レビ人はそばめを外に出し、彼女は一晩中暴行を受けた(23-26)。様々な性的な乱れの背後で、女性の人格や人権が無視されていることを見逃してはならない。それは老人もレビ人も同様であった。レビ人は何事もなかったかのように一晩休み、朝起きてそばめを見つけると、何の感情も示さずその遺体を十二に切り分け、イスラエル中に送りつけ、会衆を集めるよう訴えた(29)。
この一連の出来事の発端となっていることは、レビ人が一人の女性をめとることに始まっているが、その夫婦関係に問題があったが解決を見ることなく、そこから性的暴行事件となるが、この時でさえ、レビ人の非情さは隠され、暴行事件の真意がイスラエル全部族に問われるだけになてっていることに大きな問題がある。
神の御前に何が正しい事なのかが問われている。

主題 <自分の満足のために行動していないか>

聖書箇所 士師記 18章     (2012年10月 8日)

今日のみことば「あなたがたが行くときは、安心しきっている民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。その場所には、地にあるもので足りないものは何もない。」」(10)
 ダン部族は自分たちが住む相続地を求めて、斥候を派遣し、エフライムの山地を行き巡らせた(2)。彼らはミカの家で祭司と出会い、その旅が成功するかどうかを尋ねた(5)。祭司は、主の名を用いて祝福を保証している。しかし、この戦いが本当に主からの命令ではなく、ダン族の占領地を得ようとする求めから始まっており、主からの命令ではないのに、主の名を安易に用いてしまっている問題がこの時にあったことを忘れてはならない。
 五人の斥候は、無防備に見えたライシュに目をつけた。他の町から孤立しており、あらゆるものが満たされている町であった(7)。ダン族はそこで平穏に住んでいた人々を皆殺しにし、占領しようとした(9)。ここには信仰による勝利でなく、占領し自分たちの富のみに動されていることに問題を見出すのである。
 ミカの祭司となったレビ人も、金銭と地位で動かされる者であった。彼は職場を求めて旅をし、お金でミカに雇われて使用人のようになり、そこへダン族が来てもっとよい条件を言うと、ミカを捨てて偶像と一緒に出て行ってしまった(20)。ミカは、ダン族に偶像と祭司を返してほしいと求めたが、彼らが強いことがわかり、あきらめた(26)。  
最終的にダン部族はライシュを攻め取り、名前をダンと変え、さらに自分たちのために彫像を立てた(30)。どこまでも自分たちの勢力を誇示し、自分たちの部族の繁栄のみに生きている。それが正しいとして生きていたダン部族は愚かであった。
私たちも神を忘れ自分の満足のために行動してしまっていないか注意したいと思います。

主題 <霊的な指導を必要としている>

聖書箇所 士師記 17章     (2012年10月 7日)

今日のみことば「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」 (6)

  17章からはイスラエルの民がいかに混乱していたかが記されている。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめい自分の目に正しいと見えることを行っていた」とあり(6)、ここには霊的な指導者を欠き、自己中心的な価値観が支配している状況が伺える。
ミカは母親の銀を盗んだ。良心が痛んだのかそれを告白した。母は、主の律法によって「盗み」の罪を、厳しく悔改めを迫るよりも、祝福の祈りをした(2)。ここにも、自己中心的な価値観が見られる。 悔い改めを迫ることのなかった故に、ミカが十戒の教えに反する、彫像、鋳像を造り、さらに、祭司服エポデと、偶像として拝まれてしまうことのあるテラフイムを作った。また勝手に祭司を任命できないはずなのに、息子を祭司にまでしてしまった(5)。また、ミカは、レビ人を自分の家の祭司にするという、過ちも犯した(10)。
今日でも、神を恐れるよりも、人を恐れる者となっていないだろうか。自分の目に正しいと思うことを行なっていればよいと考えていた。このように、まさに当時のイスラエルは、神から遣わされた霊的指導者がいない状態で、無秩序な、無法状態にあった。そして、ミカが「銀」に執着したように(2、10)、経済活動、財力に大きな関心を持って、さらには名誉欲、権力に目がくらまされていたことを思うとき、現代の私たちの社会もまさに同様ではないかと思う。
ミカの生い立ちを考えるとき、戒めるべきときに戒めなかった母の責任も大きい。罪を犯しても、その罪を叱らない母であり、息子を充分に訓練せず、罪を残したままにしてしまう母であった。
次世代につないで行く親が信仰によって、主のみ前に祈りつつ謙遜に歩もうとすることを忘れてはならないことを教えてくれている。

主題 <悔い改めて再び立ち上がる> 

聖書箇所 士師記 16章     (2012年10月 6日)

今日のみことば「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」」(28)

 「彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」(20)ここにサムソンの悲劇がある。なぜこのような悲惨な結果になってしまったのだろうか。
 4~22節には、悪女デリラの誘惑について記されている。サムソンの悲劇の始まりは女性による誘惑と言う最も彼の弱点をつかれたことによっている。サムソンは、再び異邦人である、ペリシテ人の女性を好きになってしまう。しかも、彼女を愛してしまった(4)。しかし、デリラは彼を愛していなかった。彼女は、彼を裏切ることにより報賞金を得ようとする。サタンの働きは巧妙で、今日の私たちにも弱さをついてくるということに注意しなくてはならない。
 悲しいことに、サムソンは、彼女の陰謀を知り、自滅することになるのにもかかわらず、彼女に本当のことを打ち明けてしまう(17)。誰かを愛すると、人は盲目になりやすい。またサムソンには、自分の力が決してなくなることはない、というおごりがあったのであろう。ついにサムソンは捕えられ、牢の中で臼をひくまでになってしまった。
しかし、敗北に終わったかに見えた、ここに主の恵みを見る。それはサムソンの髪の毛が伸び始めるにつれて、彼の力が戻ってきた。そして、彼は最後に主に祈り、その力をイスラエルの救いのために用いたのだった(28-30)。
私たちも悔い改めの機会を生かし、再び主から力を得て歩むことができるように祈ろう。

主題 <弱さの中で主に叫ぶ>

 福音伝道教団 前橋キリスト教会・渋川キリスト教会
聖書箇所 士師記 15章     (2012年10月 5日)

今日のみことば「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」」(18)  
 15章では、サムソンは、以前の妻を返してもらうことを願ったが、叶わなかった(1~2)。そこで彼は、ペリシテ人の畑に火をつけてしまう(3~5)。その結果、ペリシテ人たちによって妻とその父親は焼かれてしまい、サムソンはその復讐をする(6~8)。この事件を知ったイスラエル人たちは、サムソンをペリシテ人の手に渡そうとする。ここに、イスラエルの民たちが、奴隷の状態に甘んじて戦おうとせず、しかも自分たちのさばきつかさである者さえ裏切ろうとするまでに愚かな姿を示している(9~13)。
しかし、神はこのサムソンを、放ってはおかなかった。主の霊が彼の上に激しく下り、彼はロバのあご骨で千人を撃ち殺してしまう(14~15)。さらには、三百匹ものジャッカルを捕らえ、その尾と尾をつなぎ合せた。また腕にかかっていた綱を簡単に引きちぎった。さらに驚くべきことに一人で千人を打ち殺した。このような力は、実は彼自身から出たものではなく、主の霊によるものであった(15)。
この戦いの後、サムソンは激しい渇きを覚え、主に叫び求めている(18)。主は彼の叫びに答え、水を与えられた。力を誇ることのできるような勝利の後に、水を求めて叫ぶという弱さが見られるという中に、いかに人間は弱いかを思わされる。しかし、そのような求めに神は速やかに応えられているところに主のあわれみでしかないことを痛感させられる。神の力は、人の弱さの中に完全に現れることを覚えたい(Ⅱコリント12:9)。

主題 <主の霊に力づけられて> 

聖書箇所 士師記 14章     (2012年10月 4日)

今日のみことば「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。」(19)

 

 14章ではサムソンの人となりを知ることができる。それは決して誇れることがあるというよりは、むしろ、多くの欠点を見る。彼は復讐心が強く、狂暴で、性的な面で弱点を持っていた。これらの弱点に負けて、後に転落することになるほどの愚かな姿を見させられる。
 そのようなサムソンであるがイスラエルがペリシテ人によって苦しめられる時に立ち向かっていく人として用いられている。神はサムソンと共におられ、主の御霊が彼の上に激しく下られたことによって力を得て勝利を治めたのである。
 以上のことから言えることは、神は、私たちがどんな弱さや欠点を持っていても、そういう私たちを選んで用いることがおできになるということである。神はただ、私たちが神の御霊に心を開いて、御霊に自由に働いていただく者となることを求められるということを覚えたい。
 また、同時に、神に大いに用いられ、また御霊に支配されている人々でも完全ではないということを覚えなくてはならない。私たちはサムソンのように不完全で、愚かで、失敗しやすい者である。
最後に、パウロも言っているように、私たちは倒れないように気をつけようという助言を心に留めて今日を歩ませて頂きたいと思う。(Iコリント10:12)。

主題 <主の霊は働き始められる>

聖書箇所 士師記 13章     (2012年10月 3日)

今日のみことば「そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」(25)

 13章から登場してくるのが、最後の士師のサムソンである。本章では、サムソンの誕生について記されている。
 サムソンの誕生する頃のイスラエルは、一見これまでと異なるものが伺える。これまでは、イスラエルが苦しみの中で主に叫び求めた時に、多くの場合、主は彼らに助け手を送ってくださってきた。しかしここには、主への叫びも、罪の悔改めも記されていない。これまで嘆きの声を主にあげていた姿や悔い改めていた姿が描写されてきたのに、ここに至っては何も記されていない。でも、最後の士師の誕生が先立って記されていることに、神の先行したあわれみが浮かび上がって来るように感じさせられる。
 また、サムソンの誕生については、その両親に予告されたということがこれまでと異なる点である。しかも「その子は胎内にいるときから神へのナジル人である」と告げられた。そして、その時から、ごく普通の平凡な夫婦であったマノアとその妻が、神の救いのみわざを担うものとされた。主の使いは、彼らにも、ナジル人の規定を守るように指示している(4、`14)。このように、本人たちがまだ充分に意識していないようなときから、主は彼らをご自身の救いのみわざのために用い始められたのである。
 神の救いの御業は神の憐れみのうちに先行して行われていくということ、何も分からないマノア夫妻を通して用いられていく中に始まっていったことを思うと、主イエスによる救いの御業もまさに神の何にも先行した愛によって始まっていることを思い起こさせてくれるのではないだろうか。主の愛、その救いの御業に感謝しよう。

主題 <逃亡者と侮辱され> 

聖書箇所 士師記 12章     (2012年10月 2日)

今日のみことば「そして、エフタはギルアデの人々をみな集めて、エフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これはエフライムが、「ギルアデ人よ。あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの逃亡者だ」と言ったからである。」(4)

12章には、エフタがギルアデ人を招集し、エフライム人と戦った記事がしるされている。この戦いの発端は、エフライム人の侮辱的なことば、「あなたがたは……エフライムの逃亡者」であった(4)。この戦いは結果的にエフタの罪深さを明らかにしてしまう結果となった(6)。そして、もう一つ注目すべきことは、主が彼に戦わせ、勝たせたとは記されていない。とまり、主による戦いではなく、エフタの個人的な感情から始まった戦いであったことを示している。
 この戦いから分かることは、イスラエルは、せっかくアモン人を撃退したのに(11:32)、戦利品をめぐる内部紛争によって、弱体化したということである。そして、エフタの問題としては、自分の肉的な思いを捨てきれなかったことが分かる。彼のこれまでの失敗をまとめてみよう。第一に、彼には、かつて仲間から追放されたことからくる卑屈な思いと、自己憐潤から生じる罪深い自己中心性があったことだろう。第二に、かしらになりたがる権力欲があった。第三に彼は、罪深い愚かな誓願をたてた。
 エフタは六年間さばいて後、イブツァン、エロン、アブドンなどがイスラエルをさばくがそれぞれ長くはなかった。この後再び、主の目の前に悪を行なったイスラエルは、四十年もの間、主によってペリシテ人の手に渡されることになる。
 エフタに見る不完全さと罪深さを覚え、私たちは悔い改めて、主の豊かな赦しとあわれみにゆだねて生きる者となりましょう。