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2013年1月16日 (水)

主題 <神への恐れ>

聖書箇所 サムエル記第一 6章  (2012年10月21日)

今日のみことば「ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」」 (20)  
 ペリシテ人の町々を襲ったわざわいと神の箱の関係をめぐって、ある人たちは、わざわいが神の箱によってもたらされたとは認めず、「偶然に起こったこと」とし、「心をかたくなに」して、神の箱を送り返すことに反対したようである(6)。そのため神の箱が「七か月もペリシテ人の野にあった」 (1)。
 ペリシテ人の中のそのような人たちを説得して、彼らの上に重くのしかかる「神の手」が去るように努めたのは、ペリシテ人の祭司、占い師たちでだった。彼らはこの件の解決には「償い」が必要で、五つの金のねずみ(腫物の媒介役を果たしたらしい)の像を神の箱に添えて返すことによって「イスラエルの神に栄光を帰」さなければならないと説いた。そうすることによって、わざわいが「神の手」によることを認めることになると考えたのであろう(3-5)。神の箱の返し方についても、彼らの提案は思慮に富んでいた。「くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛」に引かせた、神の箱を積んだ車が、子牛の待つ牛小屋ではなくイスラエルへの道を進んで行くなら、わざわいは神の箱によってもたらされたことになると彼らは考えた(7-9)。神のご介人なしに、そのようなことは起こりえないからである。そしてその、普通なら起こりえないことが起きた(10-12)。
 神の箱を喜び迎えたベテ・シェメシュの人たちは、全焼のいけにえをささげて神を礼拝したが、主の箱の中を見たために、主に打たれた(19)。
 ペリシテにあって恐れを覚えさせた神の箱は、ベテ・シェメシュでは好奇心となって、打たれてしまっている。神への恐れということをもう一度考えさせられる出来事であった。