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2013年1月16日 (水)

主題 <ダビデのように>

聖書箇所 列王記第一  15章  (2012年12月24日)

今日のみことば「アサが父ダビデのように主の目にかなうことを行なった。」(11)

 イスラエルの王であったダビデはいつも、イスラエルにとって主のみこころにかなう生活の規範であったことがわかります。ですからたとえ彼がウリヤと彼の妻にした大きな罪でさえ詩篇を見るときに告白され、ゆるされることにより規範とさえなっているのです。
 アサは父のようにではなく、主の目にかなうことを次々行ないます。停滞していた真のイスラエルの宗教を改革し、汚れを取り去り、偶像を除きます。たとえ母親といえども堕落や偶像に関係するなら処分するほどでした。
 このように彼の治世のはじめは、そして途中までは主のみこころにかなっていました。しかし、晩年にはどうも思わしくなく、敵の来襲には神殿のものを持ち出し、足を病んだ時にも、神を求めずに医者を求めたのでした(Ⅱ歴代誌16章を読んで下さい)。
 アサは出発がよかったが、最後が悪かったという歩みから注意深く学んでおきたいのです。信仰者も注意しなくてはなりません。信仰の当初の輝かしい歩みが、いつしか人間的、この世的な社会からの影響を受け、すっかり信仰を失ってしまう人がいます。それはほんとうに残念なことです。
 ジョージ・ミュラーは「主よ。われをして、罪深い老人として死ぬことがないようにしてください。」と祈るのが常だったといいます。そして、そういうように主のみこころにかなわない晩年を過ごす人が決して少なくないことは悲しいことです
<祈り>主よ。若いときの主への忠誠、熱心を、生涯の最後まで貫けますように、救いの恵みをいつも自覚させてください。