主題 <悲しみと喜びが入り交じる>
聖書箇所 エズラ記 3章 (2013年4月 3日)
今日のみことば「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(12)
バビロンから帰還した人々が、7月(現在の10月)にいっせいに一人のようにエルサレム集まったのです。帰還したばかりの彼らには、しなくてはならないたくさんのことがあったろう。エルサレムまで行かなくてもいいではないか、と考えないのです。一人のクリスチャンがいいました。「救われて以来、礼拝を休んだことはない。」と。
そこに、以前の信仰生活のゆるみから来た不信仰がもたらしたバビロン捕囚だったのです。そして「めいめいが喜んでささげるささげ物を主にささげた」(5)すばらしさがあるのです。こうして神殿の再建が進んで行きますが、受けとめる人々には、かつての秀麗な神殿のかがやきを知っていた老人が泣いたのです。感無量だったのです。
一方、ほかの人々は喜びにあふれて声を張り上げたのです。自分の立つべき地は神の家のあるエルサレムであり、神殿が建設されると言うことは、神第一とすることをはっきりと表明したのです。
こうした霊的な信仰者が神を賛美し、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(11)と歌い合ったのです。
毎週の主の日の礼拝で、神の真実に心を打たれて、互いに語り合うこの世にない交わりこそ最も大切にすべきことです。この世のことに心を奪われていたイスラエルの歴史の失敗から学び取ることができるなら、すばらしことです。ちょうど東日本震災から二年、人のことよりも自分のことに心を傾けていた日本人が<絆(きずな)>こそ何にもまさる生き方であると発見したら、多くの犠牲は無駄ではない。