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2013年7月 3日 (水)

主題 <高ぶりを捨てて>

聖書箇所 歴代誌第二  32章   (2013年3月27日)

今日のみことば「しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。」(26)

主が御使いを送り、アッシリヤとの戦いにおいて、まさに主が戦ってくださり、ヒゼキヤ王は勝利を得た(21)。その後、彼は病を負うという試練を経験する(24)。しかし、彼は日時計の影が十度戻るという不思議なしるしを伴って主によって癒された(Ⅱ列王20章参照)。しかし、主の恵みによって癒されたにもかかわらず、ヒゼキヤは心を高ぶらせた(25)。彼の罪の深さが記されていると共に、ヒゼキヤは悔い改めて主にへりくだる姿勢も持っていた(26)。
 二度の試練の後、バビロンからのつかさたちが来訪することが試練として記されている(31)。31節冒頭に、原文では「このようにして」という接続詞があり、この来訪に伴う事件が水道建設成功(30)の後ということに関係があることを示している。並行箇所は、列王記第二、20章12~19節であり、預言者イザヤが、近い将来にバビロンが王の財宝を持ち去ってしまうことを預言している。これは王としての事業の成功の後に、ヒゼキヤに起こった試練であり、主からの祝福を自らの力と錯覚してしまうものであった。
 バビロンからのつかさたちの来訪の後の事については記されていないが、神は試みられていたことは言われている(31)のを見ると、絶えず主の目は注がれ、人の高ぶりを注視されていたのではないかと思う。
 私たちも内なる信仰に主の目が注がれていることを覚え、高ぶりから離れることができるように、高ぶったときには速やかに悔い改める者となれるように祈らなくてはならないことをヒゼキヤ王から教えられます。