主題 <ヨブの立たされた苦悩の率直な激白>
聖書箇所 ヨブ記 30章 (2013年6月 1日)
今日のみことば「私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。」(26)
ヨブの置かれた立場がどれほどに困難であったかを想起しよう。29章にあったすべてが幸せであった頃とは全く反対の立場である。
どうしてこのような状況で嘆かずにいられようか。叫ばずにいられようか。しかし、ヨブの周囲の人々はただ眺めるだけだ。苦難の叫びを見て見ぬふりをするだけだ。いや、苦しむ人間にはとても人々は冷酷なのだ。見下げ(1)、かつての使用人とその子供らがあざけるのだ。
前任地に一人の信徒がいた。富豪だった家族が戦後の農地解放によって小作人たちが手のひらを返したようにふんぞり返り、攻撃された。息子が不良になり荒れていたときに、息子の大学の教授がアララギ派の歌人でキリスト者であったので、聖書に導かれ洗礼を受けた。そこから本当の希望に変えられたのだ。
ヨブの苦悩をほんの一部だがわかる。しかもこうしたときに、神がヨブの訴えを少しも顧みてくださっていないと思えるのだ。こうしたときにこそ、神だけは見捨てないと言ってほしい。光を望み、幸福を期待したのに、悪が来たのだ(26)。
ヨブの心は少しも休みがないだけではない。はらわたが煮えかえる日々だったのだ。もう外に出ることもできない。うちに閉じこもり、うめくのみだ。まるで動物のように成り下がっている。
竪琴は楽しく、暖かであったのに、いまや悲しみの音しか出さない。そのようにしか聞こえてこない。ああ、この章を何度も読み返したい。