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2013年7月 3日 (水)

主題 <礼拝する喜び>

聖書箇所 歴代誌第二   29章  (2013年3月24日)

今日のみことば「そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。近寄って来て、感謝のいけにえを主の宮に携えて来なさい。」」 (31)  

ヒゼキヤ王はソロモン王以来の高い評価されれている王として記されている。彼の業績は主の宮を整えることから始められた(3)。
神殿の聖別完了が報告されるとすぐに、ヒゼキヤ王は罪のためのいけにえをささげた。それは、王国と聖所とユダの、罪の贖いのためだった(21)。アハズに至るまでは、ヒゼキヤの父祖たちは、主に対する不信を重ねていた。アハズ王は、「不信」が彼の信仰の内実を表わしていたが、ヒゼキヤ王は前王までの不信の罪から神殿や民を「聖別」することで、彼の信仰の表明をした。
 ヒゼキヤは全イスラエルの罪のためのいけにえをささげ(24)、楽器を用いた賛美も伴わせて礼拝をささげた(25~30)。奏楽を伴う礼拝は、楽器のことも含めて、ダビデ時代が一つの模範だった(25)。彼らの礼拝の形式は、ヒゼキヤとその周辺の人々の独創性によるものでなく、主が教えてこられ、民の間で大切にされてきた形式であった。
 神の民全体の礼拝には、喜びがあった。献身した民がささげた、数多くの家畜などのささげ物は、民の神に対する感謝の応答を表わしている。多くのいけにえがささげられる礼拝においては、仕え人の奉仕も膨大なものだった(34)。人々が、多くの物や労力をささげたことにより、この礼拝が成立していると見えるが、民自身は、礼拝が成立するのは主による整えがあったからであり、主の恵みによると見ていた(36)。そして、礼拝によって恵みにあずかったことを喜んでいる(30)。
 私たちも喜びを持って主に礼拝をささげていきましょう。