主題 <とりなすネヘミヤ>
聖書箇所 ネヘミヤ記 1章 (2013年4月11日)
今日のみことば「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」(6)
ネヘミヤはぺルシヤ帝国で、王の献酌官という側近にとりたてられていた。そこへ、ハナニによって、エルサレムの城壁は崩され、門は焼き払われたままで放置されたままになっていることが告げられた(3)。
ネヘミヤは、イスラエルがバビロンに捕因になって以来、自らの安定した立場に立って、祖国の現状を他人事のように聞くこともできた。自分は神の前に正しく歩んでいる。イスラエルの現状は彼らの不信仰が原因であると、突き放すこともできた。しかし、ネヘミヤにとっては、その現状がどうであれ、イスラエルの現状を憂い、そして、イスラエルのために、その民のために行動していく時と悟った。ネヘミヤはその行動の始めとして主の前に祈り始めていった。それも民の内的、外的な悲惨を前にネヘミヤは泣き、喪に服し、断食し、祈るのである(4)。
彼は、堅く信仰の道を歩んでいた。しかしイスラエルの罪を、自らの正義を足場にし、評論家のように断罪してはいない。むしろ「私も私の父の家も罪を犯しました」と告白し(6)、自らをも、罪ある者としている。ここにとりなしの祈りの姿勢を教えられる。それは、全く罪のないイエス・キリストが、全世界の罪を一身に負われるお方として十字架につかれたという事実につながる、とりなし手の本質を見るのではないだろうか。
私たちもネヘミヤのように、とりなし祈る者とさせて頂きたい。