主題 <私のそむきの罪を主に告白しよう>
聖書箇所 詩篇 32篇 (2013年7月15日)
今日のみことば「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(5)
詩篇32篇を読む時、人は何により生き、何をもって喜び、生き生きした歩みをすることができるのかを確認させてくださるように思う。
この詩篇の冒頭で、ダビデは罪をおおわれた人、つまりは罪を犯したけれでも赦された者、主によって罪をお認めにならない者は幸いであると言っている。そして、3~4節ではダビデが罪に苛まれている姿が告白されている。特に、「私は黙っていたときに」(32:2)とあるように、自分の犯した罪を隠し続けていたことを意味している告白の中に、私たちも改めて注意しなければならない重要なことを示しているように思う。それはどういうことかと言うと、罪を犯したことも問われなければならないことであるが、罪を犯してそれを隠し続けていくことはもっと問われなければならないことを私たちに示しているのである。
昨今、犯罪も証明できなければ罪に定められない、犯罪を犯しても時効まで逃げ切ることを考えるなどの風潮があるように思う。犯罪をつきとめていくために捜査を長く行なえるように事件の時効の延長が話し合われるようになってきている。しかし、時効の延長が言われながらも自首する者は少ない。依然として罪を認めていくことの良心が破壊的な状況にあることを思う。罪を負い続ける者、隠し続けていく者に平安はないのである。
でも、私たちは確認しよう。罪の告白は人生の敗北ではなく、再起であり、赦された者の歩みはまさに喜びの人生であることを、主はそのように導いてくださるお方であることを改めて覚えたい(32:11)。