2012年7月 2日 (月)

主題 <その地に住む民は力強く>

聖書箇所 民数記 13章     (2012年 7月 1日)

今日のみことば「その地に住む民は力強く」 (28)

 不信仰には何の得るところもないことを学ぼう。今日は、私たちがしばしば陥りがちになる心の動揺を見つめたいのです。
 イスラエルにとって、出エジプトしたのは、約束の地に入るためです。ただし、そこにはたやすく入れるという錯覚があったのです。この錯覚は、その後の大きな生き方に影響を持つことになる。
ビリー・グラハム先生は、クルセードで決心した人々を招く前に、信仰を持つことによる戦いがあることを先に述べて、招くのを見て感動したことを思います。クリスチャンになることには、必ず困難が伴うことを覚悟の上で神に従うのです。
 約束の地偵察に出かけた12人の優秀な人物は口をそろえて、約束の地は素晴らしいと述べた。その証拠の品物、ぶどうなどに見せたのです。
 しかしその中の10人は、28節のように、<しかし、その地に住む民は力強く、駄目ですといった。彼らは敵の力に圧倒され自分たちはいなごのように思える>と言うのです。
 不信仰の思いは伝染する。悲観的なことに、人はきまって同情し、同調する。14章1節には、民は泣き、極端な悪いことを互いにつぶやきあい、悪いことを想像してゆく姿を描きます。不信仰で通り越す荒野は何の益もない事を知らなければなりません。不信仰によっては、決して神のご計画は成就されないのです。どんなに正当からの人には困難や問題が映ってもです。
<祈り>主よ。あなたは恵みの御手をもって導かれています。不信仰にならず、信仰を持ってあなたの命令を信じる者にしてください。アーメン。

主題<モーセの謙遜さ> 

聖書箇所 民数記 12章     (2012年 6月30日)

今日のみことば「さて、モ-セという人は、地上の誰にも勝って非常に謙遜であった。」(3)
 モ-セは指導的な有力者に非難されたのです。しかもそれは、ミリアムとアロンであった。結婚問題を利用して、モ-セに反抗する口実としたのです。
 彼等は自分の副官としての地位では満足できず、指導者になろうとしたのです。今でも多くの人も同様のことを試みるが、下の地位で忠実でない人は上の地位でも不忠実であり、ふさわしくないのである。
 2節『主はこれを聞かれた』とある。問題を引き起こす者はしばしばすべてを主が聞いておられることを忘れてしまうのです。神は常に臨在し最善の時を見て断乎たる処罰をなさるのを思い起こそう。
モ-セはこの時、何も一言も弁解していない。自分への攻撃を辛抱強く堪え忍んだのです。ただ彼には民を約束の地へ導くこの目的のために、時には神はそのしもべの一人に、霊的利益のため身の潔白を明らかにされるまで長い間、不当の非難の雲で覆われることをよしとされることがあるが、この場合には神は即刻さばきをくだされたのです。
 私たちの中に汚れを温存してはなりません。親しみをもってかくまってはなりません。悪を断然、捨てて、追出す覚悟が必要です。なぜでしょうか。
ツアラート(らい病人)などは伝染するからです。罪は知らず知らずのうちに生涯を台無しにしてしまうからです。また交わりにおいても『悪い交わりはよい習慣を損ないます。』とあります。心しなければなりません。
<祈り>主よ。たかぶる所の罪を告白します。きよい生涯にして下さい。

主題 <苦悩をもって神に訴える時>

聖書箇所 民数記 11章     (2012年 6月29日)

今日のみことば「モ-セは主に申し上げた。『なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。』」(11)  

 人間は何と呟きと不満が多いことでしょう。毎日の生活の中に、喜びと感謝を感じる時に比べて、何倍も不平の方が多いものです。このような人間を何十万人も連れた旅ですから、指導者モ-セの苦悩も想像を越えたものでした。
 タブエラにおける不平、呟きによるさばき(1~3)、キブロテハタアワの欲心の権化のような叫び(4~)です。
 ついには、祈り以外にモ-セの心を静めるものは無くなってしまいました。モ-セは赤心をもって、自分のうめきの中で苦悩をもって神に訴えます。「自分でとても負いきれません。私を殺してくれ」と切々と祈るのです(11~15)。なんという自殺行為のような祈りでしょうか。
 16節~20節に主の答えがある。一つは、重荷を七十人に負わせること、二つは、主が奇跡を行うと言われる。
 21~22節のモ-セの張り詰めた緊張に対し、23節の主の答えは『主の手は短いのであろうか。わたしのことばが実現するかどうか今、わかる』と。
 神は、私たちをどこまでも愛し、導かれ、心の奥底から信じられるようにされる。あらゆる状況下に摂理の御手を置かれている。

<祈り>主よ。こんな罪人に救いを与えて、あなたの民のために大きな奉仕の場に用いてくださることを感謝します。感謝しつつさせて行わせて下さい。

主題 <銀のラッパを二本作らせよ> 

聖書箇所 民数記  10章    (2012年 6月28日)

今日のみことば「銀のラッパを二本作らせよ。」(2)

 『音楽は力である』と山室軍平先生は言う。音楽を善用すれば善を行う励みとなり、悪用すれば悪を行う助けとなる。
 祭司がラッパを吹くとは、神のために音楽が用いられたのであり、音楽をきよめて聖なるご用に役立たせることが大切であります。
当教会でも、大いにその音楽の賜物を活用してもらいたいと願っている。
このラッパは第1に会衆を集めるためである。(3節)
  神のみもとに人々を集めるらっぱを吹き続けたい。
第2は行軍を導くため。(5節)
  人々を行動に進ませ、神の奉仕に向かわせる働きをする。
第3は礼拝のために用いる。(7節)
  この神へのはっきりとした捧げ物こそ、神の前に覚えられる秘訣です。 第4は戦争の士気を高めるためである。(9~10節)
  侵略者が襲ったときに、戦いに向かうためです。
 伝道のために大いに賛美し、福音を宣伝しようではありませんか。信仰を前進するために、礼拝を盛んにするために、ラッパを吹こう。

<祈り>主よ。あなたが備えてくださった素晴らしい奉仕の場所を感謝します。心から楽しみ、喜び、ほめたたえ、崇めることが仕事になるように。

主題 <神の示されたことに従う>

聖書箇所 民数記  9章     (2012年 6月27日)

今日のみことば「雲が天幕に離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして雲が止まるその場所で、イスラエル人は宿営していた」(17)

 3回(6節)主の命令によって旅立ち、宿営したとあります。彼らは神の命令にしたがって何時でも行動しました。雲が彼らを導くしるしとなり、先導したのです。
 人間的に見れば、ここは嫌なところと思えて離れたいと考えたり、ここは過ごしやすいので、いたいと考えやすい。
 この雲が、二日でも、一月でも、あるいは一年でも、幕屋の上にとどまって去らなければ、宿営して旅立たなかった(22節)のである。
 「早すぎず」、かといって「遅すぎず」、一歩一歩の導きにしたがって歩んだことが書かれています。きよめられた生活とは、服従の生活であります。
 神の民にとって、神の示されたことに従うことがすべてです。神を第一に求める生活であり、神のみこころだけが正しいと考えるのです。
 イスラエル人にとって昼は雲、夜は火が彼らを導くのですが、私たちにとっては聖霊です。聖霊は聖書の教えを悟らせ、また摂理によって導かれ、良心によって導かれ、そして生きた神のしもべたちによって神の導きを示されるのです。大切なことは神が示してくださることに、ただちに従う心であります。

<祈り>主よ、この私をいつも確かな導きをもって雲のように示して下さい。あなたのみこころを知りつつ歩ませてください。アーメン

主題 <レビ人の聖別> 

聖書箇所 民数記  8章     (2012年 6月26日)

今日のみことば「あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振り掛ける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い身をきよめ」(7)

 この章は、レビ人の聖別である。幕屋が完成し、モーセが油を注いで聖別し、祭壇の奉献の式が行われた。おそらく12日間の中で、レビ人のきよめの任職式が行われたのであろう(レビ記8章、出エジプト40章)。
 レビ人は、イスラエルの初子の代わりとして主に仕えるように召された部族です。
 <きよめよ>とあるのは汚れを除いて、「きよめる」意味がある。
 罪のきよめの水を振り掛けるだけではなく、全身にかみそりを当てることによって神への奉仕のために、この汚れをそぎ落とす必要がある。神への奉仕に当るものは、自己の深みにまできよめを体験しなければなりません。
 『キリスト、イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。』(ガラテヤ5:24)とあります。自我に死んで神に生きることです。人にほめられず、ただ神にのみほめられ、認められる者でありたい。

<祈り>主よ、あなたのために奉仕するべく、自己をあなたにささげ、あなたの喜ぶ道を歩ませてください。

主題 <かしらたちが・・・ささげものをした>

聖書箇所 民数記  7章     (2012年 6月25日)

今日のみことば「イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち――彼らは部族の長たちで、登録を担当した者――がささげ物をした。」(2)

 7章は、出エジプトをしてちょうど1年が過ぎ記念する日の記録です。イスラエルの暦の上で第2年1月1日である。この日に、幕屋が完成した日でもあります(出エジプト40章)。
 この日は特別なささげものをしたことが記されています。特に、族長たちがささげものをしました。族長としての立場と特権のあるところには、おのずから義務も伴うのです。
 ルカ12:48『すべて多く与えられた者は多く求められ、多く任されたものは、多く要求されます。』と主は教えられている。人より高い立場、学問、財産、才能を与えられている人は、それぞれがより多くを期待されるのです。神は人それぞれに特権と共に義務を与えられました。神が賜物を与えられたのは、それで自分の金もうけや、快楽のために用いるのではなく、神のご用に役立つために、与えられたのです。弱い立場の人を苦しめることや、持たぬと見える者を見下げることなどもってのほかである。
 あなたはどんな賜物がありますか。健康、知識、お金、何でも神のために用いていない部分はありませんか。
 「神はモーセと語られた」(89節)とあります。神はモーセのこれらすべてを喜んで受けられたことを示しているのです。
<祈り>主よ、あなたの大きな愛に感動しています。自分自身をささげます。あなたの素晴らしい救いの恵みに応える一日としてください。

主題 <ナジル人の誓願を立てる場合>

聖書箇所 民数記 6章      (2012年 6月24日)

今日のみことば「男または女が、主の者として身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合」 (2)

 ナジル人とは『離れたもの』『聖別された者』の意味です。神に仕えるため自分を聖別して献身する者です。ある者は一時期、ある者は一生そのように献身したのであった。
 このようなナジル人は、第1にブドウのものを飲まない、食べないのです。ぶどうの木からできるものを一切食べない。これは罪の快楽に溺れないことを意味するでしょう。また、当時のイスラエルの民が置かれていた周囲の古い民族、異教の地の習慣を拒絶した生き方をすることでもあるのでしょう。
 第2に、ナジル人は髪を切らない。神に仕える生涯は、人にも明らかにされるはずである。この髪を切らないという命令は、一般社会の生活と違うというよりも、自然なままで力と生気が満ちていることを示すだろう。
 第3に汚れに触れぬ事である。このことは、神の聖なる奉仕をする事の意味である。 
 例として、サムソン(士師記13~16章)、サムエル(Ⅰサムエル記1章11節)、バプテスマのヨハネ(ルカ1章15節)などがいる。彼らは例外なく、著しい霊的覚醒のために用いられたのです。現代はここにあるようなナジル人は出てこないのであろうか。神は今も、霊的ナジル人を神は求めておられると信じるのです。

<祈り>主よ。あなたは恵みの御手をもって導かれています。あなたの命令に素直に従える者にしてください。アーメン。

主題<すべて宿営から追い出せ>

聖書箇所 民数記 5章      (2012年 6月23日)

今日のみことば「身を汚している者をすべて宿営から追出せ」(2)

 この聖句には、なにか厳しいように感じられるかもしれない。でも、神がともに歩むためには、汚れたものが神の宿営においてわがもの顔で神の国で歩き回るのを喜ばれないのです。
 イスラエルの旅には、ひとつの目的があります。それは神のおられることと素晴らしさを現わす(栄光を現わす)ための日々です。
 Ⅱコリント6:16~17『神の宮と偶像とに何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住みまた歩む、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き彼らと分離せよ。と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすればわたしはあなたを受入れ』とあります。
 私たちの中に汚れを温存してはなりません。罪を親しみをもってかくまってはなりません。断然、捨てて、追出す覚悟が必要です。なぜでしょうか。ツアラート(らい病)は伝染するからです。罪は知らず知らずのうちに自分の生涯を台無しにしてしまい、周囲の人々に伝染するからです。
 交わりにおいても『悪い交わりはよい習慣を損ないます。』とあります。心して、きよくなることを追求しなければなりません。

<祈り>主よ。自分の罪を告白します。きよい生涯をもって主の素晴らしさを現わすものにしてください。

主題 <会見の幕屋で務につき仕事をする>

聖書箇所 民数記 4章      (2012年 6月22日)

今日のみことば「それは会見の天幕で務につき仕事をすることのできる30才以上50才までのすべての者である。」(3)  

 会見の天幕で務めのできる人についての規定です。神のそば近くで奉仕できるために、整えられる必要があります。この年齢(30才以上50才)は、もっとも心身共に充実した時期です。こうした時期に、神に仕えるさいわいをどれほど感謝したことだろうか。
 レビ人がその務めをするが、アロンの命令に従って統一ある行動をしたのです。ひとり自分勝手な奉仕は、どれほどに良さそうに見えても正しくない。 私たちもまたイエス、キリストにあって、与えられたご奉仕をするべきです。『わたしなど、とても・・・』という人を、神は欲しておられない。神への奉仕には、そのまごころさえあれば与えられた賜物を生かして用いられることができるのです。
 完全な聖書の知識がなくとも、雄弁な人でなくても、人一倍器用にできなくてもよいのです。ひとりひとりに与えられる部所で喜んで奉仕をしたいと思うことです。年齢も限りが在りません。今、福音の奉仕のためには猫の手も借りたい程忙しい時代なのです。あなたのことを神は見ておられる。牧師や伝道者は今、もっとも必要とされています。神は方法や金銭を求める前に、神のためにささげる人を求めています。

<祈り>主よ。こんな罪人に救いを与えて、あなたの大きな奉仕に用いてくださることを感謝します。謙遜に、感謝しつつさせてください。