主題 <あなたの上にあるのは、神のいつくしみです>
聖書箇所 ローマ人への手紙 11章(2011年10月 3日)
今日のみことば「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」(22)
1節「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。」との問いに、「絶対にそんなことはありません。」と言い、パウロ自身もかつて、イエスを信じる者たちを迫害し、多くの罪を重ねてきた自分が、神のあわれみの故に救われたのだから、イスラエルの民も神の御救いから退けられてはいなと語り、救いの希望を示されました(1~6)。
パウロは同胞イスラエルの民が救われる希望について、2つのことを例に説明しました。一つは、16節に言われている「初物」を神にささげることによって、粉の全部がきよいとされたことをあげ(民数記15:17~21参照)、この場合の「初物」とはアブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの先人たちをさし、「粉の全部」とはその子孫であるイスラエルの民をさして言われたことでした。もう一つは、野生種のオリーブが接ぎ木されることをあげて、イエスを拒否したイスラエルの民はおられた枝にたとえられ、イエスを信じて救われた異邦人は根に接ぎ木された野生種のオリーブの木にたとえられており、つまりは不信仰によって折られてしまった枝のようなイスラエルの民は、オリーブの木が接ぎ木されることによって、再び根から栄養を得るように、異邦人が救われることによって、イスラエルの民も神の救いにあずかる余地が備えられたということを意味していました。
これらのイスラエルの民に対する希望を語った後、パウロは異邦人キリスト者であるローマ教会の信徒に対して、「高ぶらないで、恐れなさい」(20)と勧めました。イスラエルの民も、異邦人の民も、どちらも今は信仰によって恵みにより救われたということを改めて確認するように勧めました。どちらの民でもなく、比較して優位性によって救われているのでもなく、ただ、神のあわれみによること、そのあわれみの中にとどまっていることが救いの確証であることを教えられたのでした。私たちも主のあわれみの中にへりくだって主を恐れる者として歩みましょう。