主題 <弱さを誇ること 1>
聖書箇所 コリント人への手紙第二11章(2011年11月 4日)
今日のみことば「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30)
この世は強さと力を称賛し、追い求め、誇ります。しかし、キリスト者は強さや力の対極にある弱さを、新しい視点から見ることを教えられることによって、弱さを誇る者とされているということをさらにパウロは展開して語りました。
22~23節で、コリントの教会の人々が育ちやユダヤ人としての血統、また立場などを誇り、自慢していたことに触れています。パウロもそのようなものを誇ろうとすれば、充分に誇ることができました。彼は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、きっすいのヘブル人でありました。しかし、パウロはそのようなものを誇ることは愚かであると言いました(21)。
また、偽使徒たちは自らをキリストのしもべであると主張したようであるが、パウロは「私は彼ら以上にそうなのです」と語っています(23)。パウロは、キリストのしもべであるしるしとは、キリストとその福音のために受ける苦しみであると考えていたようである。パウロは福音のために何と多くの苦難に遭ったことだろう。投獄、むち打ちの刑、死に直面したこと、様々な難など、私たちは圧倒される。パウロは、偽使徒たちとは比較にならないほどの苦難を、経験したのである。
このような外からくる苦難のほかに、パウロには諸教会への「心づかい」があった(28)。この世にある教会は絶えず試みられ、敵の攻撃にさらされている。弱さが露呈し、つまずきが起こることもある。諸教会の必要を目の当たりにしながら、パウロは自らの弱さを自覚したことだろう。しかし、彼は自分の弱さを誇ることを学んだ。弱さが、パウロを、キリストと結びつけてキリストのしもべとし(23)、弱さが彼を、キリストの教会と結びつけていることを知ったのである(28、29)。
苦しみの中にある弱さを消極的にとられるのではなく、むしろパウロの経験したように、キリストに結び合わせられるめぐみとして積極的に受け止め、弱さを誇ることができたら感謝ではないでしょうか。